2021年4月30日号 Vol.396

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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偏見と差別が導いた誤り
サッコ&バンゼッティ事件

手錠をかけられたバルトロメオ・バンゼッティ(左)とニコラ・サッコ。1923年、マサチューセッツ州高位裁判所(Massachusetts Superior Court)で撮影。Photo Source :Boston Public Library, Public Domain

日付は前後するが、1977年8月23日付朝刊解説面に、『米のサッコ・バンゼッティ事件 処刑50年目の無罪宣告 偏見、差別の裁き認める 今もなお跡たたぬ冤罪立証への追跡』という見出しで8段組の大型記事を出稿した。

自由と平等など、高い理想を掲げて建国したアメリカだが、奴隷として酷使したアフリカ系黒人だけでなく、アイリッシュやユダヤ系、イスラム系、イタリア系、ラテン系、アジア系などマイノリティへの差別が絶えなかった。在米特派員としては、そうしたアメリカの恥部・暗部にも目を配るべきだと考えていた矢先に、守備範囲ではないが、北東部マサチューセッツ州のマイケル・デュカキス知事が、半世紀以上も前の強盗殺人事件について、裁判の誤審を宣言し、処刑された二人のイタリア系移民に死後恩赦を与えると発表したのだ。

サッコ・バンゼッティ事件については、長く冤罪が叫ばれてきた。一九七一年にはイタリアとフランスの合作で『死刑台のメロディ』という映画になり、ジョーン・バエズが歌った主題歌『Here's to you(勝利への讚歌)』とともに世界中でヒットした。しかも、私がロサンゼルスに赴任することになり、社会部から外報部に転属して内勤シフトに入っていた時期に、タイム誌が取り上げた記事に着目してその要約を外報面に署名入りで書いた経緯もあって、私には馴染みが深かったのだ。

デュカキス知事の宣言は7月のことだったが、そこからもう一度、事実関係の掘り起こしにかかった。LAタイムズのmorgue(資料室)で膨大な量の関連記事に当たり、UCLAの図書館で資料を探したりして、記事を書く骨格の知識を得て、東京本社の解説部デスクに相談すると、「じっくり書き込んでくれ」の回答。処刑からちょうど半世紀にあたる日の掲載を目指して出稿した。記事の本文で事件のあらましを辿ると、
……一九二〇年四月十五日、ボストン郊外サウス・ブレインツリーという町で起きた。製靴会社の給料輸送車が路上で襲われ、給与課員と警備員の二人が射殺されたうえ、社員に支払う給料一万五千七百六十六ドルがそっくり奪われた。二十日後、警察はバスの中で二人の容疑者を逮捕する。それがニコラ・サッコ(29)とバルトロメオ・バンゼッティ(32)だった。サッコは靴職人、バンゼッティは行商や日雇い仕事をしていたが、ともに貧しいイタリア系移民で無政府主義のグループに属していた。捜査当局は、「政治活動資金調達のための犯行」として二人を一級殺人罪で起訴する。
……六週間にわたる公判中、二人は終始犯行を否認したが、検察側はウソで固めた証拠と証言を次々に提供し、陪審員の心証を被告の不利に導いていった。当時の価値観からすれば、無政府主義は、悪を通り越して恐怖の論理でさえあった。二人の容疑そのものには多少懐疑的だった陪審員も、二人が恐るべき無政府主義者だったことで、同情を放棄するに十分だった。全員一致、有罪の評決を下した。……
一級殺人の有罪は即死刑を意味したが、裁判に注目していた労働者や進歩派の市民たちから冤罪を疑う声が上がり、アルバート・アインシュタインやアナトール・フランスら世界中の著名な学者・文化人をも巻き込んで再審を求める動きが高まっていく。再び記事の一部、
……二人にとって決定的とも言える展望が開けたのは、一九二五年も押し詰まったころ。別件で逮捕されていたセレスチノ・マデイロスという男が、ブレインツリーの給料強盗は自分がやったと告白したのだ。これに基づき翌二六年秋にかけて、再審の可否を決める法廷が開かれたが、担当判事は「どうせ死刑になると知った男のヒロイズムにかられた気まぐれでしかない」とマディロスの自白を一方的に過小評価し、再審への道を閉ざしてしまった。そして、最後の望みをかけた州最高裁も事実審理を一度も開かぬまま、二七年四月五日、再審請求却下を宣告。四日後、先にマディロス自白を無視した判事が判決文を読み上げる。「君たちの肉体に電流を通すことによって、死の刑罰を与える」。八月二十三日午前零時過ぎ、まずサッコが、そして数分後バンゼッティが州刑務所の電気椅子で帰らぬ人となった。その瞬間、刑務所の見張り台の探照灯が消された。……

この年、マサチューセッツ州のデュカキス知事は法律顧問に事件の再調査を命じ、7月19日に「裁判が不公正に満ちていたと信ずるに足る強い理由がある。サッコ、バンゼッティ両氏とその家族・子孫から一切の不名誉が取り除かれる。二人に死後恩赦を与えるのは、初めから二人が有罪であったことを意味するものではない」と宣言していた。

3権分立の下では、裁判所の判決を行政府の知事が覆すことはできないから、発表にあたっては「有罪、無罪の決定をするものではない」と述べ、「名誉の回復」という形で、事実上の無罪宣告をしたのだった。
記事の最後は次のように結んでいる。

……五十年前、二人の再審請求運動に加わり、あの処刑の日、刑務所の探照灯が消えるのを自分の目で目撃した女流作家キャサリン・アン・ポーター女史(83)は、この八月、「終わりなき誤り」と題したノンフィクション・ノベルを出版した。しかし、そこに語られている当時のありさまは、少しも風化していない。女史は二人が無罪だとは断定しなかった。「真実はわたしにもわからない」と告白している。ただ、偏見と差別が人を裁いた誤りを徹底的に憎悪し、人間同士が善意と愛情で結ばれる尊さを繰り返し説いて、深い感銘を与えている。女史の説く人間愛こそが永遠の真理であることは、疑いの余地もないからだ。(ロサンゼルス・内田忠男特派員)

「アングロサクソンのアメリカの歴史は差別の歴史」という人もいる。その差別が今に至るもなくなっていないのは、最近起きた「Black Lives Matter」運動の広がりからも明らかだ。中国の新疆ウイグル自治区や香港での人権侵害を強く非難するアメリカに、中国高官は「アメリカの官憲こそ、不当に人命を奪う根源的な人権侵害を犯しているではないか」とつめ寄った。新型コロナの世界的流行を巡っては、発祥地の中国を恨むあまりアジア系全体に危害を加えるhate crimesも起きている。中国側の反論を「詭弁」と片付けるだけでは済まされない現実がある。

日系移民も、20世紀初めから「黄禍論」による排斥を受け、太平洋戦争が起きると、市民権保持者まで含め、着の身・着のまま強制収容所に送り込まれた悲しい思い出がある。しかもこれは、フランクリン・D・ローズベルトという大統領の行政命令だった。国家の意志としての差別であった。終戦後、強制収容は解かれても、奪われた財産や名誉は戻らず、日系人は長く「二級市民」として扱われ、アメリカという国家が、この誤りを正すまでには40年余を要した。レーガン大統領のもと、Civil Liberties Act of 1988が成立、収容された人々に謝罪し、一人2万ドルの損害賠償が行われた。1999年までの11年間に8万人余りに総額16億ドルが支払われた、とされる。差別の代償は決して小さくない。(つづく)


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