2022年1月14日号 Vol.413

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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東西対立に終止符打った
レーガンとゴルバチョフ

1985年11月19日、ジュネーブで行われた首脳会談でレーガン大統領(左)とゴルバチョフ書記長(Photo : White House Photographic Collection)

ニュースステーションが始まって1ヵ月ほど経ったころ、アメリカとソ連の首脳会談が開かれることが具体化した。開催地はスイスのジュネーブだという。私たちニューヨーク・チームに取材の指示が出て、現地に乗り込んだ。1985年11月のことだった。

ロナルド・レーガン米大統領とミハイル・ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長との首脳会談は、これを契機に88年まで毎年開かれたが、私はその全てを現地取材することになる。結果として、米ソを基軸とした東西対立に終止符を打つ歴史的会談の目撃者となったのである。

レーガン大統領は81年の第1期就任直後から、70年代半ばに動き出したソ連とのデタント(緊張緩和)は冷戦を長期化させるだけで無意味だとして対決色を強め、軍事予算を増額、スターウオーズ計画(SDI ― 戦略防衛構想)など「力による平和」を主張。専制統治の末期に差しかかっていたブレジネフ書記長に対しては、市民たちの自由を認めない強権支配と、日用品や食糧の調達さえままならない窮迫した経済状況を痛烈に非難、evil empire=悪の帝国、とまで言い放っていた。

そのブレジネフ氏が82年11月に死去、後を継いだアンドロポフ、チェルネンコ両 書記長も84年2月と85年3月に相次いで死去した。そこで登場したのがゴルバチョフ氏だった。54歳になったばかりという異例の若さだけでなく、経済の行き詰まりと国力の衰退を率直に認めて西側との関係改善にも言及するなど、従来の指導者とは全く違った新鮮味を漂わせていた。これを見て、レーガン大統領もソ連非難を口にしなくなった。

「彼となら話ができるかもしれない」――側近にソ連側との接触を指示すると、たちまち具体化した。ジュネーブでの会談は11月19日から21日まで3日間にわたって開かれ、国務長官、首席補佐官、安全保障担当補佐官、軍備管理担当の特別顧問、駐ソ大使ら とソ連側のカウンターパート……分厚い陣容で向き合った全体会議のほか、通訳だけ同席した首脳同士の対話も長時間にわたった。安楽椅子にかけて笑顔で向き合う二人の写真が公開され、私たちも東西関係に新しい波が起きていることを強く印象付けられた。

むろん、初めからすべてがうまく運んだ訳ではない。が、何よりも両首脳が長時間、二人だけの対話をしたことで、二人の間に誠実で親密そうな関係が生まれたことは、未来に向けての「良き前兆」を感じさせるに十分だった。

閉会直後に発表された共同発表には、「会談は率直かつ有益だった。いくつかの重要な問題で重大な相違は残っている。両首脳は、それぞれの体制と国際問題への取組み方の相違を認めつつも理解を深めることができた。米ソ関係のみならず、国際情勢全体を改善する必要があることでも意見が一致、この関連で、当面する諸問題に共通の基盤があるべきだとする双方の強い願望を反映して、対話を継続する重要性を確認した」と書かれていた。これだけでも、冷戦の頭目たる米ソ首脳の初会談は「成功」と判断できたが、各論の部分を読んでゆくと、さらなる希望が芽吹いていた。

まず「安全保障」の項では、「平和の維持に対する両国の特別の責任を認識し、核戦争に勝者はなく、また核戦争は決して戦われてはならないことについて意見が一致した」としたうえで、「宇宙における軍備競争を防止し、地上における軍備競争を終わらせ、核兵器を制限・削減し、戦略的安定を強化する交渉への作業を促進することで合意した。特に、両国が保有する核兵器の大幅削減と、中距離核戦力に係る両国の考え方を含め、共通の基盤が存在する分野で、早期に話し合いを進展させるよう呼びかけた」と書き込まれた。

「対話の過程」と題された項では、「レーガン大統領とゴルバチョフ書記長は、種々のレベルでの対話を定期化し強化する必要で合意した。両首脳の会合と並んで、ソ連外務大臣と米国務長官はじめ、各省庁首脳間の定期的会合が想定される。双方は、両国間の文化・教育・科学技術面での交流計画を拡大し、貿易・経済関係も発展させる意向である。米国大統領とソヴィエト共産党書記長は、科学・教育・文化分野での交流協定の調印に立ち会った」と、両国が幅広い分野で交流を強化する枠組みを明らかにしていた。

この文書には「北太平洋の安全」という一項もあって、「両首脳はまた、米ソ両国が日本政府と協力して、北太平洋における航空路の安全を促進する一連の施策にも合意し、それを実施する措置を作成したことを満足の意をもって留意した」と書かれていた。

これより2年前の83年9月1日未明(日本時間)、宗谷岬の北、北海道と樺太を隔てる宗谷海峡上空で、ニューヨークのJFK空港からアラスカのアンカレッジを経由してソウル金浦空港に向かって飛行していた大韓航空007便が、ソ連空軍の戦闘機が発射したミサイルで撃墜され、240人の乗客と29人の乗員が全員死亡という痛ましい事件があった。乗客には76人の韓国人はじめ、米国籍が62人、日本人も28人が乗っていた。

そしてこの事件を最初に探知したのは、「二別」の通称で呼ばれた日本の陸上幕僚監部調査部第二課別室(現在は防衛省情報本部電波部)という部署だった。稚内にいた分遣班が「ミサイル発射」というソ連戦闘機が発した地上向け交信音声を傍受、最初は「演習か」との認識だったが、間も無く、「大韓航空機が消息断つ」との情報が入り、「ミサイルによる撃墜」との結論を導く決め手の証拠になった。この情報をアメリカに提供することについて、後藤田正晴官房長官や防衛庁幹部は消極的だったが、中曽根康弘首相が、「日本の傍受能力が知られたとしても、日米関係を強化する意味で、ソ連に対する日本の強い立場を明確にする好機だ。レーガンに知らせて得になることはあっても、損になることはない」と押し切ったと記録されている。

民間機撃墜という衝撃的な事件に、日米韓3国はもとより、西独、台湾、フィリピンなども一斉に非難の声を上げたが、当時の韓国は、ソ連と国交がないうえに国連にも未加盟で、外交上の手立てがなく、もっぱら日米がソ連に対する抗議と交渉の正面に立った。ソ連側は、一週間後に、オガルコフ参謀総長が「大韓航空機は民間機を装ったスパイ機だった」との声明を発表、13日には国連の緊急安保理事会に対ソ非難決議が提出されたが、ソ連の拒否権で否決された。ソ連の主張は、「アメリカがソ連極東に配備された戦闘機のスクランブル状況を知るため、あるいは、近隣で偵察飛行するアメリカ空軍機に対するソ連軍機の哨戒活動を撹乱する目的で、民間機に領空侵犯を指示し、大韓航空機がこれに従ったことから事件が発生した」というもの。墜落地点の海中から大韓航空機のブラックボックスを密かに回収していたのに、その事実を隠蔽し、後に作成した国内向けの秘密報告書で、スパイ飛行説を明確に否定していた。

読売記者時代の同僚から紹介され知遇を得ていた警察官僚出身の佐々淳行氏が、事件当時、防衛庁の官房長で対応に当たっていたので、後に直接聞いたところでは、冷戦終結後の91年11月にパリで開かれた国際テロ対策会議に出席したところ、同席したソ連KGB=国家保安委員会顧問から「事件の経緯を日本に報告する」と言われ、ブラックボックスで明らかになった詳細などが知らされたという。
首脳会談で、ゴルバチョフ氏が撃墜を認めたという記録はないが、同種の事件の再発を防ぐシステム構築に同意したことは明らかだった。(つづく)


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