2023年6月23日号 Vol.448

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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クリントンの“横取り”現象再び
APECで見せた仮初の熱意

1993年のAPECサミットに首席した各国首脳陣。クリントン大統領(中央)の右側に立つ細川首相 World leaders at the 1993 Asia-Pacific Economic Cooperation Summit, Blake Island, Seattle, WA, November 1993 (William J. Clinton Presidential Library/Photo public domain)

ビル・クリントンによる “横取り” 現象は93年11月にも起きた。

APECの略称で知られる「アジア太平洋経済協力会議」――これは東南アジア諸国連合ASEANが開いていた拡大外相会議の成果に触発されたオーストラリアのボブ・ホーク首相(当時)が、太平洋を囲む諸国による効率の高い経済協力に向けた国際的フォーラムを創設する考えで、89年11月に首都キャンベラにASEAN6ヵ国(当時の全加盟国)と日米加豪韓NZの12ヵ国の外務、経済担当閣僚を集めて開いたのが始まりだった。

この会議でAPECという機構の創設と、事務局をシンガポールに常設することが決まった。翌年以降もシンガポール、ソウル、バンコクの順に開催され、3年目の91年には中国、香港、台湾にも参加を広げた。「国家」だけでなく、香港、台湾という「地域」にも参加の枠を広げたのが新しかった。実務的なことを具体的に話し合う場としては、閣僚級会合が適切という了解があったのだが、クリントンは、これを首脳レベルの会議に格上げしようと考えたのだった。

「economy stupid」のブッシュ批判で大統領選に勝利したクリントンとしては、「経済通」のイメージを実績で広げたい……策を巡らせるうち、成長力の高さで注目を集め始めた環太平洋諸国の経済協力を拡大しようというAPECに飛びついたのであろう。大統領就任の年にアメリカが議長国になっていた巡り合わせにも恵まれ、「APECサミット」の創始者となることを発案し、閣僚会議の直後に、非公式の首脳会合を開くことを提案したのである。

メキシコとパプアニューギニアにも参加を促し、この年から参加国と地域は17に増えた。首脳会合については、アメリカの提案であればと、各国が出席に応じ、定例化で合意した。ついでに言えば、翌94年からはチリ、98年にはロシア、ペルー、ベトナムが加わって21の国と地域が参加する現在の規模となる。

私としては、クリントンのヌメヌメした自己顕示欲丸出しの政略には辟易していたが、新聞記者時代に読売と朝日でサツ回りがほぼ同期の細川護煕が8月に首相となり、9月の国連総会出席に次ぐ外交舞台……という興味があって出かけることにした。

会場になったのはワシントン州シアトルから直線で西に15キロほどのブレイク島という小さな島。州立海洋公園に指定され、北西海岸の先住民の文化や芸術に関するショーケースとしてのヴィレッジがある。警備の関係から私たち取材陣は、シアトル市内に設けられたプレスセンターが仕事場になった。

細川首相は、厚めだがカジュアルなジャケットに毛糸のスカーフを無造作に首に巻いた行動的な服装で会議に臨み、ダークスーツ姿に議員バッジまでつけた従来の首相とは明らかに一線を画したスタイルで好感が持てた。

首脳会合後の記者会見でも、官僚の書いた原稿をたどたどしく読み上げる歴代首相とは一味違っていた。

「会議には議題が3つありまして、21世紀に向けたアジア太平洋地域の挑戦と機会、メンバー各国が取り組むべき優先課題、目標達成への手段――でしたが、これらを一体として議論しました……私からは、アジアに位置する先進民主主義国としての立場と、昨日当地に到着後の各国首脳との会談の結果を踏まえて、APECでの協力のあり方を、多様性の尊重と協力の漸新的推進、交渉ではなく協議を通じた共通認識と共通目標の追求・形成、GATT(関税と貿易に関する一般協定、現在は世界貿易機関)との整合性確保、開かれた地域協力を追求し域外とも一層の意思疎通を図ることなどを強調しました。我が国の取り組むべき課題としては、インフラ整備,人材育成、エネルギー、環境といった問題を克服していく必要性を説明しました」。

また、「クリントン大統領とは、日米両国がそれぞれ、政治改革、NAFTA(北米自由貿易協定)という主要な政治課題に前進が見られたことを弾みとして、両国間のパートナーシップをさらに強化させようという意欲に溢れた会談を行うことができました。明年2月にもワシントンで首脳会談を開くことで合意したので、そこに向けて日米間の協調を一層促進していきたいと思います」とも述べ、外交に並々ならぬ意欲を垣間見せるとともに、自分の言葉と価値観で話をする透明性の高さを印象付けた。

率直さは、クリントンにも通じたようで2ショットの場面では笑顔に包まれて旧知の間柄とも思わせる和やかさを演出した。

ただ、この日米首脳会談で、細川は日本国内で未調整の所得減税を実施する考えまで踏み込んだ発言をし、翌年2月11日に開かれる会談までに、所得減税に見合った財源確保策を決める必要を迫られることになる。税の直間比率を改めるとすれば、消費税増税がいちばんの近道で、細川内閣の陰の実力者とされた小沢一郎と大蔵省の間では方針の一致を見ていたが、7党1会派にわたる連立政権の最大与党である社会党が猛烈に反発、閣内の武村正義官房長官(自民離党の新党さきがけ代表)も反対した。2月の首脳会談では、日米の経済貿易摩擦を一挙に解決するため米側が提案していた「包括協議」の合意を図ることも決まっており、細川は窮余の策として、首脳会談を8日後に控えた2月3日、午前1時という異例の時刻に会見を開いて、3年後には消費税を廃止し、福祉を目的とする7%の「国民福祉税」を新設する構想を発表する。

ところがこの構想は、閣議はおろか、官房長官や厚生大臣にも知らせておらず、細川私案とも言えるものだった。政権内外からの反発が噴き出し、4日の連立与党代表者会議で撤回に追い込まれた。直後の日米首脳会談は、経済問題の包括合意で決裂、細川の求心力は急速に失われて行き、4月8日には退陣を表明する羽目となる。

APECに話を戻せば、首脳会合で「APEC首脳の経済展望に関する声明」が採択された。

「21世紀を迎える準備をするにあたり、世界人口の4割、GNPの5割を占める我々の活力あふれる地域は、世界経済に重要な役割を果たし、経済成長と貿易拡大の道を率先して行く」と大上段に振りかぶった上で、「我々は経済的相互関係と多様性を認識しつつアジア太平洋経済の地域社会の一つの姿を描いている。開放性とパートナーシップを深めることで、急速に変化する地域及び世界経済の挑戦に対し、協力的解決方法を見出して行くことが可能となる」として、活力ある経済成長の持続、貿易と投資に対する障壁の削減、ヒトやモノの迅速かつ効率的移動の促進、より安全な未来に向け空気・水・緑地の質を保全し、再生可能な資源を管理して環境を改善……などの実現に向けた可能性を列挙した。

クリントンは意図した実績が挙げられたと例によって大袈裟に自賛したが、2年後の95年大阪での首脳会合には出席しなかった。シアトルで見せた熱意は仮初のものに過ぎなかったのか、経済も外交も自分の都合しだい、クリントンというのはそういう政治家であった。

私事にわたるが、シアトル滞在中に父の危篤入院の知らせを受けた。近傍のカナダ・ヴァンクーバーからの直行便の時刻を調べはしたが一時帰国はせず、ニューヨークに帰った後、死去の連絡を受けて葬儀に駆けつけることとなった。(一部敬称略、つづく)


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