2023年7月7日号 Vol.449

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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ソ連邦崩壊、CIS創設
西側との協調優先

反クーデター勢力の勝利を祝うエリツィン(1991年8月22日)Yeltsin on 22 August 1991 / Author:ITAR-TASS, CC BY 4.0

1994年が明けて間もなく、モスクワに出かけた。クリントン大統領初のロシア公式訪問の同行取材で、私にとっても、ソ連邦の解体消滅後初めてのモスクワだった。

冷戦を終結に導き、新たな世界秩序をもたらしたミハイル・ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は、すでに表舞台から姿を消していた。急進改革派として売り出したボリス・エリツィンが、ソ連が国際社会で果たしてきた権能をそっくり後継したロシア連邦の大統領としてクリントンのカウンターパートになっていた。そこに至る経緯を概説しておこう。

ゴルバチョフは、90年3月のソ連憲法改正で新設された「大統領」の座についたが、翌年8月に起きたクーデターで、ソ連共産党が事実上解体し、書記長の身分を失う。

このクーデターは、91年8月19日、ソ連を構成した15の共和国指導者が各共和国に権限を大幅に移譲する新連邦条約に調印する前日、ゲンナジー・ヤナーエフ副大統領らの保守派グループが旧体制維持を目的に、「国家非常事態委員会」を自称して権力奪取を試みたのだった。筋書きはウラジーミル・クリュチュコKGB議長が起草し、ゴルバチョフの別荘の名から「あけぼの作戦」を暗号名とした。ヤナーエフらは18日夕刻にクリミヤ半島の別荘で休暇中のゴルバチョフ大統領を襲い、権力移譲を要求して拒否されると、そのまま大統領を軟禁、19日早朝に国営タス通信を通じ「大統領が健康上の理由で執務不能となり副大統領が大統領職務を引き継ぐ」と宣言、モスクワ中心部に戦車部隊を出動させた。しかし、ロシア共和国のボリス・エリツィン大統領が「クーデターは違憲、国家非常事態委員会は非合法」との声明を発表して、ゴルバチョフ大統領の身の安全確認と臨時人民代議員大会の招集などを要求、反乱側の戦車に登ってロシア国旗を振って見せた。市民たちもホワイトハウスの別名のあったロシア共和国最高会議ビル周辺にバリケードを構築、クーデター派ソ連軍と戦う姿勢を鮮明にしたためクーデターは失敗に帰した。

しかし、支持を失ったのはゴルバチョフも同じで、同月24日、共産党書記長ポストからの辞任を表明、28日には最高会議が共産党の活動停止を決め、ソ連共産党は事実上崩壊した。その一方で、クーデターから国を救ったエリツィンは勢力を拡大、12月8日にはベラルーシの旧ゴルバチョフ別荘にベラルーシ、ウクライナのリーダーを招いて秘密会議を開き、3国がソ連邦を設立した1922年の連合条約からの離脱し、独立国家共同体CISを創設することで合意。同21日にはカザフスタンのアルマアタでグルジア(現ジョージア)とバルト3国を除く11の旧ソ連加盟国がCIS創設の署名式を挙行した。(ただしウクライナ、モルドバ、トルクメニスタンは同条約を批准しなかった)

8月にクーデターを鎮圧したエリツィンが「第2のクーデター」を起こしたようなものだった。ゴルバチョフ大統領は12月25日に「私は不安をもって去る」と憂色をこめたテレビ演説をして辞任、91年末をもってソ連邦は崩壊、核兵器の発射コードを含むソ連の大統領権限はエリツィンに移譲された。

エリツィンは93年明け早々の1月3日に離任直前のジョージ・H・W・ブッシュ大統領をモスクワに招いて第2次戦略兵器削減条約START IIに調印、新たな米露関係の一方の主役となったことを世界に印象付けた。

88年のレーガン・ゴルバチョフ首脳会談以来6年ぶりで訪れたモスクワはさまざまな点で変わっていた。私たちの宿舎も、かつてはソ連側に決められたが、そうした押し付けや規制は一切なくなった。外資系の高級ホテルも進出して、暗く沈んだモスクワが表情も一変していた。ただ、ホテルのメインバーに行くと、一目でそれとわかる女性がカウンターの向こうからしきりに秋波を送ってくる。こうした女性がいることは、庶民の生活レベルが落ち込んでいることの証左と受け取った。

ソ連邦の崩壊に伴い、「ロシア共和国」から「ロシア連邦」に名を変えたロシアは、92年1月に貿易・価格・通貨の自由化を断行、国際通貨基金IMFの助言に従い、市場経済への移行を急ぎながらマクロ経済の安定に向け厳格な緊縮財政を行ったが、25倍以上というハイパー・インフレーションに見舞われ、92年のGDPはマイナス15%近くに落ち込んだ。急進的改革の無理が随所に露見し、国民の生活水準の低下も明らかだった。生産の減少、企業債務と失業率の増大などが続く一方、国内には民族主義的傾向が強まり、国際社会に対する影響力の回復が叫ばれてもいた。

エリツィン大統領は、私たちが訪問する直前の93年12月に、大統領に強大な権限を与える新憲法を成立させ、その下で改革を実行しようとしていたが、就任以来唱えてきた急進的改革と、西側との協調優先の路線から、緩やかな経済改革と、大国としての主張を押し出す外交へと軌道修正する関頭に立っていた。

94年1月13、14の両日、クレムリンで開かれたクリントン大統領との初の首脳会談では、朝鮮半島や中東地域で核兵器など大量破壊兵器の拡散を防ぐことが重要との認識で一致、米露双方が互いを長距離弾道ミサイルの標的としないことでも合意、ロシアが核弾頭の削減に伴い、高濃縮ウラン500トンを原子力発電所で使用できるまでに低濃縮化することを約束、これを受けて米側は向こう20年間に120億ドル相当の低濃縮ウランを買い取ることとした。また、エリツィン大統領はロシアが北大西洋条約機構NATOの「平和のためのパートナーシップ」計画に参加する意向も表明した。

アメリカとの協調姿勢は維持しながらも、国際社会で「大国」としての地位を確立したい姿勢がにじみ出ているように感じた。

このエリツィンによる統治は、98年に対外債務がデフォルト=債務不履行に陥る通貨危機やチェチェン共和国への軍事介入など危機をはらみながら99年末まで続いたが、アメリカはじめ西側諸国との関係は次第に悪化、99年12月に北京を訪問して江沢民国家主席らと会談した折には、「クリントンはロシアが完全備蓄の核兵器を保有する大国であることを忘れているようだ」と発言、近年のプーチン大統領に酷似した恫喝もしていた。ただ国民の人気も衰え、同年12月31日にテレビ演説で、国民の期待に応えられなかったことへの反省と民主主義の原則を守って大統領を辞任する旨を述べ、「21世紀が始まる2000年を迎えるに際し、ロシアには新しい指導者が求められている」として、首相に起用していたウラジーミル・プーチンを後継大統領に指名した。これが今日に至る全体主義国家への逆戻りを生むことになる。

モスクワ訪問の帰途、内戦状態の旧ユーゴに国連事務総長特別代表として派遣されていた明石康氏に会うため、クロアチアの首都ザグレグに向かった。明石さんは、地味だが伝統と格式を感じさせるペンクラブのダイニングで夕食をご馳走して下さり、ユーゴの現状について細かな解説をしてくれた。一言で言えば旧ユーゴの再統一は「絶望的」であり、民族ごとの小国家に分裂するのは避けられない、ただ、そこへ向かうまでの武力闘争が厄介で、国連の手にあまる、ということだった。

ホテルに帰って部屋のテレビをつけると、カリフォルニア州ノースリッジ大地震の生々しいライブ映像が映し出された。世界中がリアルタイムでつながっていることを痛感させられた旅でもあった。
(一部敬称略、つづく)


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