2023年7月21日号 Vol.450

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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レーガン大統領の功績
強いアメリカ、小さな政府

レーガン大統領(1986年8月16日撮影)President Reagan's departure via Marine One for Trip to California. 08/16/1986 (Courtesy Ronald Reagan Library)

時間軸はやや戻るが、93年11月5日、私にはショッキングな発表があった。

80年代、2期にわたりアメリカの大統領(第40代)を務めたロナルド・レーガンが、国民宛ての自筆の手紙を公開して、アルツハイマー型認知症にかかっていることを明らかにしたのである。

「私は最近、アルツハイマー病に冒された数百万のアメリカ市民の一人であると診断されました」という書き出しで、「ナンシーと私は、このニューズを私的なこととしてしまい込むか、公にするか、選択を迫られました」とした上で、「ナンシーが乳がんにかかり、私ががんの手術を受けた時、幸い早期発見で大事に至りませんでしたが、それを公開することで、より多くの人々が(がんの)検査を受けるようになれば良い、と考えました」と述べ、今回も公開に踏み切った心情を明らかにした。

「いまの私は元気です。この地球上に神が与えて下さる残された時間、いつも通りのことをして行きます。最愛のナンシーや家族たちと生命の旅を分かち合って行きます。野外活動を楽しみ、友人や支持者の皆さんとも接して行きたいと思います。ただ不幸なことに、アルツハイマー病が進行すると、家族はしばしば重い負担を負うことになります。ナンシーにこの苦痛から逃れる道があることを願うばかりですが、そういう時が来ても、ナンシーは皆さんの助けも借りて、信念と勇気を持って立ち向かってくれるでしょう。最後に、アメリカ市民の皆さんが私に大統領として奉仕する偉大な名誉を与えて下さったことに深い感謝を捧げます」……

そして、文末は「I now begin the journey that will lead me into the sunset of my life……Thank you, my friends. May God always bless you. Sincerely」と結んでいた。「私は今、私の人生を黄昏に導く旅を始めます」――簡潔にして美しいセンテンスであった。

それから数年後、メトロポリタン・オペラハウスでナンシー夫人とばったり出会った。

メッツのオペラには、貧者の一灯のつもりで、毎年5千ドルを私的に寄付していた。公演の都度配られるプログラムには、終わりの方に寄付者の名前が印刷されている。「5千ドル以上1万ドル未満」の項、アルファベット順に並ぶ名前の「T」のところに「TADAO UCHIDA」とあり、そのすぐ下に「TOSHIBA AMERICA」があったこともある。「東芝は会社のお金だが、私は自分のお金だ」と優越感を感じたものだった。

メトロポリタン・オペラハウスには、中2階にparterreという個室が並ぶフロアがある。アッシャーにカギのかかるドアを開けてもらうと、席に着く前にコートなどを掛けるかなり広いクローク・スペースがあり、さらに扉を開けると7人分の座席がある……10数年間、オペラのシーズンが始まると、私はここの2席を買っていた。ある夜、幕間にそのフロアのロビーで夫人の姿を見つけたのである。

駆け寄って挨拶した私に、「彼はもう私のこともわからないのよ」と、深い憂いに満ちた表情で話した。「そうですか。悲しいことですね。どうか、くれぐれもお大事にして下さい」と返すのが精一杯だった。

ロナルド・レーガンは、私にとって特別に思い入れの深い大統領だった。2度の大統領選、2度の就任式、4度の米ソ首脳会談などを間近に取材した。

ベトナムでの「敗戦」や、大統領の犯罪、ウォーターゲイト事件で、アメリカという国家の正義が揺らぎ、国民が自信を失ったように見えた70年代後半、民主党のジミー・カーター大統領(76年就任)は、救世主の期待を完全に裏切った。二次に及んだオイルショックの影響もあって、インフレ下で景気が後退する典型的なスタグフレーションにも見舞われたが、優柔不断なカーターは有効な対策を打ち出せず、中央銀行の政策金利が20%にも達する事態を招いた。79年に起きたイランのイスラム革命では、テヘランの大使館が丸ごと占拠され、50人以上の館員が人質として拘束された。軍の特殊部隊に救出作戦を命じたが砂嵐で頓挫、失敗に終わる……やることなすこと無様な失策の連続で、国民の国家に対する信頼はますます衰退していった。

80年の大統領選挙――共和党は、「強いアメリカの復活」を掲げたレーガンを指名し、44州を制覇、選挙人489人を獲得して現職カーターに圧勝した。81年1月21日の就任式には、拘束されていたテヘラン大使館員が全て解放される劇的な「ご祝儀」までついた。

就任から69日後の3月30日には、首都ワシントンのヒルトンホテルで開かれたAFL・CIO(アメリカ労働総同盟・産別会議)総会での演説を終えて出てきたところを狙撃された。胸に銃弾を浴びて担ぎ込まれた病院で、銃弾の摘出手術に集まった医師団に、笑顔で「キミたち皆が共和党員だと良いがね」と軽口を叩き、医師団も「大統領、今日だけは全員共和党です」と応じる一幕があった。弾丸は心臓をかすめて肺の奥深くに止まっていたが手術は成功、手術直後の大統領を見舞った妻にも「Honey, I forgot to duck =避けるのを忘れたよ」と、26年にヘビー級ボクシング王者ジャック・デンプシーがジーン・タニーとのタイトル戦で予想外の敗北を喫した後、妻にこぼした言い訳とされる言葉を使って周囲を安心させた。

国民の目には、こうした大統領の邪気のない笑顔と陽気さがたまらない魅力となって行く。70歳の高齢にしては驚異的と言われた速さで11日後には退院、在任中に銃撃され、銃弾が命中しながら生還した最初の大統領となった。

演説の語り口も、激せず率直で分かりやすい言葉を並べ説得力があった。メディアはgreat communicatorの称号を贈り、それに誰もが納得した。国が難局に直面しても、大統領の親しみと慈愛に満ちた笑顔を見て安心する。それが日常となった。

ただ、レーガンがいつも笑顔で優しい話をしていたわけでは、むろんない。「経済的にも軍事的にも強いアメリカ」を掲げ、経済政策では減税による供給面からの経済刺激を主張するサプライサイド経済学に基づき、減税実現のために規制を緩和し財政支出を削減して「小さな政府」を作るレーガノミクス、軍事面では敵の弾道ミサイルを迎撃するスターウオーズ計画とも言われたSDI=戦略防衛構想を提唱した。

ソ連がアフガニスタンに軍事侵攻していた冷戦下の厳しい現実には、特に厳しく対応した。83年3月8日には、福音派キリスト教徒の総会での演説で、ソ連を「evil empire=悪の帝国」と決めつけもした。
だが、それから2年余りして、ソ連にゴルバチョフ書記長が登場すると、その開明さをいち早く見抜いて首脳会談の開催を提案した。前にも書いたが、晩秋のジュネーブで初めて両者が会談した時のレーガンが見せた穏やかで包み込むような笑顔は、終生忘れないだろう。

私がテレビ朝日との専属出演契約を終えた直後の04年6月5日、レーガンは、ロサンゼルス近郊ベルエアの自宅で静かに息を引き取った。死因は肺炎と伝えられた。(一部敬称略、つづく)


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