2023年8月4日号 Vol.451

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
[Detail, 81] バックナンバーはこちら

多民族国家だった旧ユーゴ
激しい内戦、分離・解体

前々回の末尾近くで書いた明石康氏が国連事務総長特別代表に任命された旧ユーゴスラヴィアの紛争は、その後も激しさを増す一方だった。特に94年以降、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでの戦闘が国際社会の関心を集めることになる。84年に冬の五輪を開催した首都サラエボは、美しく整然とした街だったが、戦禍に巻き込まれ目を覆う廃墟と化して行った。現地から届く映像には、世界の若人が集い平和の交歓に沸いたスタジアムが無惨な遺体置き場とされる有様が映っていた。

発端は、92年3月に、スロヴェニア、クロアチア、マケドニアに続いてボスニア・ヘルツェゴヴィナが旧ユーゴ連邦からの独立を宣言したことにさかのぼる。

第二次大戦後に成立したユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国は、大戦中、ナチスへのパルチザン活動を指揮したヨシプ・プロズ・チトー元帥がソ連からの自立を目指したことで、東欧社会主義圏で独自の立場を堅持した。「モザイク」の異名があったほど複雑に入り組んだ複数の民族がセルビア、モンテネグロ、スロヴェニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの6つの共和国と、セルヴィア内の2つの自治州を構成、この複雑な連邦をチトーは「兄弟愛と統一」を標語に、独特のバランス感覚とカリスマでまとめ上げた。東西冷戦下でも東側のワルシャワ条約機構に加盟せず、53年には隣接するギリシャ、トルコとバルカン3国同盟を結び、両国が加盟する西側の軍事同盟NATOに近い立場さえ取った。

80年5月にチトーが没した後は、集団指導体制で統一は維持したが、89年の東欧革命後に各共和国の独立意欲が一気に高まり、分裂・解体への道を歩むことになった。

そうした中で、旧連邦維持に執着したのがセルビア共和国幹部会議長スロボダン・ミロシェヴィッチで、スロヴェニア、クロアチア、マケドニアが独立宣言するたびに、地域在住のセルビア人保護などを理由に連邦軍を送って介入し、独立を妨害した。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、独立宣言翌月の92年4月に当時の欧州共同体ECが国家承認、5月には国連にも加盟して独立国としての体裁を整えたが、旧ユーゴ内でも特に複雑な人種構成で、ボスニャク人と呼ばれるイスラム教徒が半数を占め、セルビア人が30%、クロアチア人が15%……。

旧連邦への執着が強かったセルビア人は、セルビア民主党創設者の一人だったラドヴァン・カラジッチを指導者として、4月にボスニア北部を中心に「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・セルビア人共和国=スルプスカ共和国」を宣言して独自の共和国軍を組織し、イスラム教徒を中心とする郷土防衛隊との間で内戦を始めた。同月末には、セルビアとモンテネグロが「新ユーゴスラヴィア連邦」を結成、旧連邦軍のボスニア出身セルビア兵が新ユーゴ軍と合流して参戦した。

国際社会は、この内戦をセルビアのミロシェヴィッチ政権による侵略行為と見なし、5月末には国連が新ユーゴ(事実上はセルビア)への制裁を決議した。国連は、これに先立つ同年2月に、クロアチアとセルビア両共和国がクロアチア内戦について無条件停戦協定に調印したのを機に、UNPROFOR=国連保護軍と名付けた小規模な平和監視部隊を派遣したが、ほとんど役に立たなかった。

ボスニアでは、92年10月までの戦闘でセルビア人とクロアチア人勢力の支配領域が定まってくると、93年春頃からクロアチア人とボスニャク人の間でも戦闘が始まり、同年8月には南部ヘルツェゴヴィナ地方はクロアチア人の勢力範囲となり、以後、残り地域の支配権をめぐるセルビア人とイスラム教徒ボスニャク人の戦闘が続いた。クロアチア人勢力がセルビア人勢力と同盟を結ぶ動きなどもあり、欧州の一角で十字軍時代さながらのキリスト教徒とイスラム教徒の戦闘が繰り広げられた。

国際社会は概してボスニャクに同情的だったが、ロシアのエリツィン政権はセルビア支持を強く押し出し、制裁にも参加しなかった。模様眺めだったクリントン政権は人道的立場からの介入を求める動きが国内外で強くなったため、94年に入ってようやく動き始める。クロアチア人勢力を説得してボスニャク人勢力と再び同盟を結ばせ、3月1日には首都ワシントンに両者の代表を呼びつけて、ボスニャクとクロアチア人の連邦国家形成を決めさせた。

4月には北大西洋条約機構=NATO軍による空爆も行われた。さらに、ボスニャクとクロアチア人勢力に対しアメリカの軍事援助も始まる。11月には、依然劣勢のボスニャク勢力を支援するためNATOが3度目となる空爆を実施。セルビア人らは対抗策として国連保護軍の兵士を人質として拘束する挙に出たため、兵士を派遣していた英仏両国は空爆の停止を主張、空爆続行を主張するアメリカと対立した。

クリントン政権は右往左往の印象で、決め手となる対策が打ち出せない。見兼ねたジミー・カーター元大統領が仲介工作に乗り出し、95年1月1日から4ヵ月の停戦にこぎ着けたが、その期限が切れると、再び激しい戦闘が始まる。セルビア人勢力は総攻撃に出てボスニャク勢力の拠点都市を次々陥落させ、7月には国連が安全地帯に指定していたスレブレニツァで8千人以上を組織的に殺害する虐殺事件も起きた。ボスニャク人男性を絶滅させる「民族浄化策」とされた。8月末近くにはサラエボの中央市場を砲撃して市民37人が死亡した。

ここに及んでアメリカもようやく腰を上げる。9月から10月にかけて、米露を中心にバルカン地域に影響力を持つ諸国を「連絡調整グループ」として、オハイオ州デイトンに招き、戦闘当事者3者に和平協議に応ずるよう強い圧力をかけた。

場所をメディアを通じた駆け引きのできないデイトン郊外のライト・パターソン空軍基地とし、ウォーレン・クリストファー国務長官が議長となり、細部の交渉はリチャード・ホルブルック国務次官補が主導、セルビア大統領ミロシェヴィッチとクロアチアのフラニョ・トゥジマン大統領、ボスニア・ヘルツェゴヴィナからはアリヤ・イゼトベゴヴィッチ大統領とムハマド・サツィルベイ外相が出席して、協議は11月1日に始まった。

現地に行っても会議を直接取材する見込みがないと知って、私はニューヨークに留まったまま米メディアの報道に注目する日々だったが、伝えられる協議は、アメリカの解決案を当事者に押し付ける気配が濃厚だった。当事者たちは、それぞれに抵抗したようだったが、最終的にはアメリカの圧力に抵抗できず、21日に「合意」の成立が告げられる。その文書は12月14日にパリで署名されたが、紛争の最終解決には遠い内容だった。

当初の国境のまま「国家」として存続させるために、3つの主要民族から選ばれた代表者による大統領評議会を作り、その議長は8ヵ月ごとに交代する輪番制で事実上の国家元首となるが、その上に国際社会の監督機関として主要国による和平履行評議会なるものが設けられ、その「上級代表」が、和平の実施と継続に必要と認められる時は、直接立法権や人事介入権を含む強力な内政介入権を発動できるようになっている。

名ばかりの主権国ではないか。アメリカが主導して、無理矢理作り上げた和平合意であって、この統治構造は四半世紀余を過ぎた今も継続している。クリントン政権の傲慢で高圧的な強制の産物でしかなかった。(一部敬称略、つづく)


HOME