2023年8月18日号 Vol.452

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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2期目に挑むクリントン
権力への執着、浮き彫りに

コネチカット州ハートフォードで行われた1996年度・第一回大統領討論会でボブ・ドール(左)とビル・クリントン(Clinton Presidential Library, Public domain photo, 6 October 1996)

1996年は私の評価が低く好みでもなかったビル・クリントンが2期目に挑む大統領選挙の年であった。

クリントンは常に自らの存在感を際立たせることに腐心した大統領だったから、人気も高かったと見られがちだが、決してそうではなかった。93年1月の就任から94年11月の中間選挙に至る期間は特に低く、「1期だけの大統領」との予測が広がっていた。

大統領就任直後から、クリントンはアーカンソー州知事時代の土地転がしの資金疑惑や州の職員だった女性との性スキャンダルなどが暴露されたことで、大統領としての資質や信頼性に強い疑念を抱かせ、支持率が不支持を下回る形で低迷していたが、「新民主党哲学」なるものを大仰にぶち上げ、増税や攻撃用ライフル銃取得の規制を強化し、ホモセクシュアルの軍隊への受け入れを解禁するなど、直前の共和党政権で主流を占めた保守派の牙城に大胆な攻撃を仕掛けた。当然、共和党の猛反撃を受ける。

就任後初の94年中間選挙に向け、共和党は保守派の闘将とされたニュート・ギングリッチ院内幹事が中心になり、「Contract with America=アメリカとの契約」を正面に打ち出した。筋書きは保守派のシンクタンク「ヘリテッジ財団」が書いた。

選挙後の新議会開会後100日以内に包括法案10本を可決させるとの「契約」で、そこには財政赤字を削減するための財政責任法、防犯対策を強化する街区復活法、未成年母親への福祉給付打ち切りなどを定めた個人責任法、家族の役割を強化する家族強化法、中産階級への減税を含むアメリカン・ドリーム再建法、米軍を国連の指揮権から外す国防再建法……などが含まれていた。

クリントンは、こうした共和党の攻勢に強気で対応したが、94年に入ると連邦議会下院で共和党の強硬な議事妨害に遭い、大統領選で公約した国民皆保険に向けた医療保険の改革法はじめ、政治資金規制法、ロビイング規制法などクリントン色を濃厚に打ち出した法案が軒並み廃案になる失点を重ねた。無党派や民主党支持の有権者の間にも「特に理由はないがクリントンは嫌いだ」と公言する声が広がった。

中間選挙は、共和党が圧勝する。

民主党の議席を上院で8、下院でも52奪い、選挙後の勢力分野は上院で53対47、下院で230対204(無所属1)と、両院で過半数を獲得した。「中間選挙は政権党に不利」とは言われるが、下院で共和党が多数党になったのが42年ぶり、上院でも10年ぶりだったと言えば、94年の結果がいかに特別なものだったか、ご理解頂けるだろう。

95年1月に始まった新議会では、多数を握った共和党がさらなる攻勢に出た。均衡財政を義務付ける憲法修正案や、大統領の項目別拒否権を可能にする法案を相次いで通過させたほか、予算をめぐる攻防から暫定予算が間に合わず、95年11月と12月の2度にわたり連邦政府が一時閉鎖に追い込まれた。クリントンは念願の医療保険改革などは断念して、民主党として前例のない均衡財政案を逆提案して共和党に擦り寄り、共和党が主張する社会保障改革案について下院議長となったギングリッチと長時間の交渉の末、法案の署名に応じることとなった。

これは96年8月に成立をみた「個人責任と就労機会調停法」と呼ばれる法律で、要約すれば、個人責任を強調することで、福祉給付の受給対象者を絞り込み、労働や家庭生活に伝統的な価値観を持ち込もうという、共和党年来の主張そのものである。例えば、未成年の未婚の母などに持続的に給付されていた「要保護児童家庭扶助」という制度から、「生活困窮家庭への一時的扶助」に絞り込まれた。「大きな政府」の民主党の社会福祉から、「小さな政府」を主張してやまない共和党のそれに切り替わったのであった。

共和党は、こうした「上げ潮」の中で96年の大統領選を迎えたのである。

現職クリントンを1期だけで潰そうとする候補が次々名乗りをあげた。上院多数党の院内総務、ボブ・ドール、保守派コラムニスト、パット・ブキャナン、新聞雑誌の版元経営者、スティーブ・フォーブズ、カリフォルニア州知事、ピート・ウイルソン……総勢12人に及んだ。

この中で真っ先に出馬を表明したのがドールだった。「党首」という役職のないアメリカの政党で「上院院内総務」は、事実上の党のリーダーである。当時の共和党は「リパブリカン・マシーン」と言われたほど、全米的に強固な組織を持っていたが、リーダーともいうべき人物が「出る」と言われたのでは粗略な扱いはできない。多くの上下両院議員、州知事、大都市の市長ら、いわゆる党の「有力者」たちが早い時期からドール支持の立場を鮮明にした。

ドールは、76年大統領選で当時現職のジェラルド・フォードから副大統領候補に指名され、民主党のカーター=モンデール・コンビに敗れたほか、80、88年の選挙では共和党内の指名を争い、レーガン、ブッシュ(父)に敗退した経歴があった。カンサス州で政界デビューしたのが戦後間もない50年で、60年に連邦下院議員に初当選、4期8年務めた後、88年から上院に転じて連続5回当選……長い政治歴はあったが、それが大統領に相応しいかどうかは、現在のバイデン大統領を見れば明らかだ。

73歳の高齢を考えれば、「これが最後」の思いもあったであろう。一種悲壮感さえ漂わせて指名争いに挑んだが、その割には盛り上がらない。予備選挙出だしのアイオワ州こそ辛うじて1位になったが、続くニューハンプシャー州ではブキャナンに先を越され、アリゾナ州ではフォーブズの後塵を拝した。デラウエア州もフォーブズ、アラスカ、ルイジアナ州はブキャナンが勝利、3月12日のスーパーテューズデイの出口調査では、一般有権者の半数近くが「別の誰かが指名レースに参入して欲しい」と答えていた。

この危機的状況を打開できたのは、対抗馬に浮上したブキャナンが極端な保守主義・孤立主義・保護貿易主義を訴え、億万長者のフォーブズが「大統領の座をカネで買う」と思わせる戦いに出て、それぞれ党内主流の支持を得られなかったこと、「このままでは党が分裂する」と危惧した党の有力者たちが援護射撃をしてくれたことだった。

8月にサンディエゴで開かれた共和党全国大会では、党組織のボスたちに引きずられた消極的支持の積み重ねがドール指名をもたらした。

本番の選挙戦は50歳のクリントンに73歳のドール……9月17日に野茂英雄投手が最初の無安打無得点試合を達成した翌日、ドールは演説の中で取り上げたが、野茂の所属球団を「ブルックリン・ドジャース」と発言。ドジャースは38年も前にロサンゼルスに移転していたのだから、「耄碌」ぶりが話題になった。政策面では、前述したクリントンの「変身」で、財政均衡の逆提案を共和党が呑んだことで、以後、財政均衡や福祉国家の効率化という共和党のテーマをクリントンが乗っ取った形になった。

結果は、クリントンの計略が見事図にあたって楽勝――得票数ではクリントンの49・2%に対しドールは40・7%、獲得選挙人の数も379対159だった。

クリントンには確固とした経綸哲学がなく、融通無碍、大統領という権力の座への執着だけが浮き彫りになった。知性に差はあるが、後のドナルド・トランプに通ずるところも多かった。(敬称略、つづく)


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