2023年9月1日号 Vol.453

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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在ペルー日本大使公邸占拠事件
突入劇は奇蹟の成功

ペルー軍兵士に救出される人質(CC BY-SA 4.0)

1996年も終わりに近づいた12月17日夜、寝耳に水のような事件が降ってわいた。

南米ペルーの首都リマにある日本大使公邸にテロリストの集団が侵入、銃撃戦の末に占拠したというのだ。

公邸ではこの夜、23日の天皇誕生日に先駆けて、祝賀レセプションが開かれ、当時のアルベルト・フジモリ大統領の母ムツエさんはじめ、ペルー政府の要人や国軍幹部、各国外交団とペルー在住の邦人・日系人ら多数が招かれていた。その宴たけなわの現地時間午後8時過ぎ、黒い服装に赤い覆面をし自動小銃と手榴弾で武装した14人の男たちが、空き家だった公邸隣の民家の塀を爆破して乱入、警備の警察官らと銃撃戦を交えた末、レセプション主催者の青木盛久大使はじめ600人余りを人質に取った。

侵入したのは、80年代初めからマルクス・レーニン主義革命を掲げて活動してきたMRTA=トゥパク・アマル革命運動という集団で、リーダーはネストル・セルパ・カルトリーニという43歳の男。「逮捕拘留されているMRTA構成員全員(セルパの妻も含まれていた)の釈放」と「安全な国外脱出のため人質を同行」、「経済政策の全面的見直し」、「戦争税(身代金)の支払い」などを要求した。

駐ペルー赤十字国際委員会代表のミシェル・ミニグ氏が現場に急行して交渉にあたり、ムツエさんを含む高齢者と子どもら200人以上の人質が同夜遅くに解放され、翌日にはドイツ、カナダ、ギリシャ大使ら9人、20日に韓国、エジプト、ブラジル大使ら39人、22日にも各国大使ら225人を一挙に解放、24日にはウルグアイ、27日にはグアテマラ、29日にはドミニカ共和国とマレーシアの各大使が解放されるなどして、最終的には、ペルー政府要人と軍人、日本大使館員と日本企業の駐在幹部72人が公邸に残された。

テレビ朝日はニューヨークのT支局長(報道番組のディレクター一筋、のち新潟テレビ21社長)と特派員2人、カメラマンらを現地に急派したが、私は国際情勢全般を見る任務からニューヨークに残った。
MRTAという組織について、日本の警察庁資料によると、「組織規模は、最盛期で千〜2千人、活動資金は、麻薬業者からの資金、誘拐、強盗、戦争税名目の企業恐喝等によって得ていた。ペルー当局が徹底した取締りを行ったことで構成員数は激減し、事件発生当時は百人を下回るとみられていた」としている。

ペルーには他に「センデロ・ルミノソ」という左翼組織があり、知名度はこちらの方が高かった。再び警察庁資料によれば、「MRTAはこれまで、欧米諸国公館、ペルー政府機関、軍・警察施設等に対する攻撃や営利目的の誘拐を中心に活動し、外国企業のペルーからの排除、キューバ型の社会主義政権樹立などを主張してきた。日本関連では、91年7月の日本車等販売店に対する連続爆弾事件や日系農場主誘拐事件、93年11月に日系人経営電気店前の自動車爆破事件などを起こした」としている。

90年に就任して諸改革を進めていたフジモリ大統領は、MRTAの要求をすべて拒否する一方、「人質に危害を加えれば実力行使を辞さない」と断固たる姿勢を示した。交渉にはパレルモ教育相があたり、国際赤十字のミニグ代表も足繁く公邸に入り、クリスマスごろからはカトリックの指導者シブリアーニ大司教が食料や医薬品の差し入れも兼ねて毎日出入りするようになった。

公邸周辺には日本のメディア各社が分厚い取材陣を配置したが、大晦日の31日にはMRTA側から共同通信に「進入可」のサインが出た。ミニグ代表が事実上の仲介をして、各社1人が4班10人前後ずつ公邸正門から敷地内に入り、邸内に入れたのは第4班の共同通信が最初で、それを機に各社1人ずつ入館。MRTAの監視下で青木大使とペルーのトゥデラ外相、シウラ国会議員、小林三井物産支店長の4人にインタビューした。

97年が明けて1月7日午後、テレビ朝日の系列局・広島ホームテレビのH記者が、スペイン語通訳とともに公邸玄関に近づき、簡単なやり取りのあと邸内に入り、約2時間後に退出したところをペルー国家警察に連行されるという「事件」が起きた。H記者はテレビ朝日ニューヨーク支局に駐在しており、テレビ朝日取材陣の一員としてリマに派遣されていた。4日後に釈放されたが、H記者が収録したビデオテープは押収された。

日本のメディアには、各社横並びで取材している場合、1社だけが特別なことをすると「抜け駆け」として厳しく排除する習慣がある。この時も、テレビ朝日が激越な非難の対象になり、H記者は間も無くニューヨークに帰された。

テレビ朝日は13日に本社で記者会見を開き、伊藤邦男社長が「ご迷惑をかけたことをお詫びする」と陳謝し、その直後、外務大臣から取材テープの返還を受けた。

1月22日、私もリマに入る。ニューヨークから直行便で8時間弱のフライトだった。到着直後にフジモリ大統領が日本報道陣と会見、「MRTA服役囚を釈放するつもりはない。国外退去については、交渉の議題にはなり得る」との立場を語り、ペルー官憲の強行突入については「選択肢ではあるが、コメントはできない」とした。

翌日、発生直後から現地にいるT支局長に案内されて公邸周辺を見て回ったが、装甲車が2台配備され、ペルー警察が厳重に警備していて寄り付けない。H記者の事件後、警備は数倍強化されたという。H記者の邸内進入の経緯を聞くと、公邸正門前の民家を指して「この家から数日監視を続け、日に数分だけ正門の警備が緩むのを見つけた。その時刻に、通訳と正門前に行き、来意を書いた大判の画用紙を掲げて交渉し、中から許しが出た」という。

「ジャーナリストというのは、そういうヌメヌメした功名心を常に隠し持っているものだ」と言うと、彼も大きく頷いていた。横並びで同じことしか書かない、伝えない日本メディアの建前は、役人と同じ発想でしかない。ちなみにH記者のその後だが、帰国して間もなく広島の局を辞め、フリーランスで活動した。23年4月の大阪市議選では大阪維新の会から天王寺区の2人目の座を狙ったが落選した。

リマでの私は、日課のように現場を訪ねたが、公邸内からはリーダーのセルパらしき人物がメガホンで「我々はテロリストではない」などと叫ぶほか、MRTAを讃える音楽が流されたりしていた。警察側も大音量の音楽などを邸内に流す。「何のつもりですかね」という若い記者に、私は「突入に備えたトンネルでも掘っているのだろう」と答えたが、後にその通りだったことが判明する。

フジモリ大統領との単独会見を模索したが巧く行かなかった。CNNやABCの取材陣と意見交換すると、彼らは「ペルー政府は強行突入で早期解決したいのだが、日本政府が人命重視で消極的だ」と話し、「私たちも早い方がいい。日本政府の決断の遅さはいつものことだね」と皮肉を言った。

現地では膠着状態が続き、私は2月5日に見切りをつけてニューヨークに帰った。

そして事件発生から127日後の4月22日、ペルー軍と警察の特殊部隊が地下トンネルを使って公邸に突入、人質72人のうち銃撃戦の巻き添えでカルロス・ジュスティ最高裁判事が死亡した他は71人が無事だった。攻撃隊からは2人の殉職者を出したが、MRTA全員を射殺して長期にわたった占拠に終止符を打った。

日本政府が逡巡した突入劇は奇跡と言える成功だった。(つづく)
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