2023年9月15日号 Vol.454

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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ロシアの正式参加でG8誕生
互いの知識や経験を共有

第23回G8サミット参加者:(左から)橋本首相(日本)、クレティエン首相(カナダ)、ブレア首相(イギリス)、エリツィン大統領(ロシア)、クリントン大統領(アメリカ)、シラク大統領(フランス)、コール首相(ドイツ)、プローディ首相(イタリア)、サンテール欧州委員会委員長(EC)、コック欧州理事会議長(EC) (Photo:White House Photograph Office / William J. Clinton Presidential Library)

1997年の主要国サミットはアメリカが議長国で、6月20日から22日までコロラド州デンバーで開かれ、G7がG8になった転換点の年でもあった。前回リヨンまではゲストの扱いだったロシア連邦が、正式の参加国になったからである。

以後、2014年にロシアの黒海に面した保養地ソチで開かれる予定だった会合が、ロシアによるウクライナ領クリミア半島の強制併合という暴挙によって開催権を剥奪され、参加国から追放されるまでの18年間、G8が続いた。

この変わり目の年に出席したロシアのエリツィン大統領は、「デンバーでG7がG8になるのが決定的に合意されたことを明記して欲しい」と述べ、G8宣言に「ロシアのサミット・プロセスへのより完全な関与に対する決意を改めて表明し、ロシアのWTO=世界貿易機関やOECD=経済協力開発機構への参加・加盟を支持し、期待する」との文言が書き込まれた。

エリツィンは、「急進的改革」という社会主義計画経済から市場経済への変革を急いだ経済政策が所得格差を広げ、チェチェンへの軍事侵攻も失敗するなど大衆の失望を買って支持率が急落した。96年大統領選挙の第1回投票では、復活した共産党のゲンナジー・ジュガーノフに僅差まで追い込まれて勝利を決められなかった。決戦では、アメリカから選挙キャンペーンのプロを招いたり、オリガルヒと呼ばれる新興財閥から巨額の選挙資金を引き出し、ようやく再選を果たした。かつての勢いを失ってはいたが、デンバーに来た時点ではまだ元気だった。クリントンはじめG7の西側首脳の多くは、冷戦後の新世界秩序を早期に確立したい一心から、ロシアを各種の国際的枠組みに取り込んで既成事実を整えたい思惑からエリツィンを支援支持する意向を示したのだった。

クリントンはまた、デンバーを売り込むことで、議長国としてのアメリカの威信を示そうともしていた。

当時の日本人にとってデンバーは、72年に開かれた札幌冬季五輪の次の開催地として、閉会式で五輪旗を引き継いだ都市だったが、高額な開催費用を嫌った市民の間に反対が広がり、その年11月の住民投票で五輪開催への公費投入が否決されてしまい、76年冬季の開催地がオーストリアのインスブルックに変更されたことで記憶されていた。

本来のデンバーは、mile-high cityのニックネームで知られるロッキー山脈東側の美しい都市である。サミットの会場には完成して間がない超近代的外観の市立図書館が当てられ、議長国アメリカによる公式ディナーは、市の中心から車で20分ほどの荒野にあるステーキハウス「ザ・フォート」で開かれた。むろん、私たち取材陣が招かれるはずもなかったが、発表されたメニューを見て、「バファローとマス」までは良かったが、「ウリ科の植物スクワッシュ(多分ズッキーニ)の花の揚げ物」に添えられたのが、「ガラガラヘビの肉と野生キノコ」だった。美食家とされ、さっぱりした日本食が好物だったフランス大統領ジャック・シラクがどんな顔をして食べたか、覗いてみたい気がした。

サミットの議題は広範囲にわたった。グローバル化の進展が新たな課題をもたらし、特に雇用面で国境をまたいだ労働者の移動、出入国管理、賃金格差……などが論議された。「高齢化」も、おそらく初めて議題となり、「活力ある高齢化」を推進する構造改革……年金・医療・介護制度の維持強化などが話し合われた。さらに環境問題では、「地球温暖化」について、2010年までに温室効果ガスを削減するための「現実的で衡平な目標にコミットする意図を有している」ことが宣言に書き込まれた。

麻薬系薬物やテロリズム対策への決意も表明され、国連改革では、グローバル・パートナーシップの育成、持続可能な開発促進についての国連の役割が確認された。

いずれをとっても、21世紀になって4半世紀を迎えようとする現在でも鮮度を失わないテーマだった。

グローバル化に関する議論は、市場経済化こそ最善の方策と考えるクリントンやトニー・ブレア英首相が議論を主導し、市場原理だけのグローバル化に必ずしも賛同しない他の首脳の発言を抑え込む場面があったとされた。

日本からは橋本龍太郎首相が2度目の出席で、前回リヨンで提案した「世界福祉構想」のフォローアップに力を入れた。公衆衛生・医療保険・年金・高齢者介護などを含む幅広い社会保障政策について、先進国だけでなく開発途上国も含め、政策の方向から実施面で多くの試行錯誤や混乱が見られる。そこで、互いの知識と経験を共有することが、それぞれの国が抱える問題解決に役立つのではないか│|との提案で、議長を務めたシラク大統領や、次の議長国であるクリントン大統領からも一定の支持を取り付けた。

デンバーでは、日本がOECD=経済協力開発機構に、加盟国が自国の社会保障政策の現状と問題点に関する国別の報告書の作成を提案し作業が進捗しているほか、途上国向けには、前年12月に沖縄で東アジア社会保障担当閣僚会議を開いて世界福祉構想に基づく知見と課題を伝え、高級事務レベル会合の定期開催に進みつつある状況などを報告した。

また、テロ対策の分野では、前回の本欄で書いた在ペルー日本大使公邸占拠事件の教訓を踏まえ、人質事件への対処能力強化について国際協力を進めることなどを提案したが、この事件については、「日本政府の煮え切らない姿勢が解決に向けたペルー政府の実力行使を遅らせたのではないか」など疑問の声も上がり、宣言文書では「あらゆる形態のテロリズムと闘う決意を再確認……」とだけ書き込まれた。

閉幕後の記者会見で橋本総理は、「リヨン・サミットで私が提唱した世界福祉構想の具体化の一環として、高齢化と感染症の問題が本格的に取り上げられました。高齢化については、社会に依存する無力な存在として捉えるのではなく、アクティブ・エイジングの視野に立って、高齢者が雇用はじめ様々な形で社会参加できる持続可能な社会保障制度を確立すること、そのための構造改革の重要性を強調しました……」と、流れるような説明をした。

前回リヨンでは、「福祉の問題は私の政治家としてのライフワーク……」と強調していただけに、この問題への熱意は燃え上がる一方という感がした。

サミット後の総理会見で、私はほぼ毎回、最前列に座ることにしていたので、デンバーでも一番前の中央に席を取った。演壇に登場した橋本総理は冒頭発言の前に私に視線を向けたので私は笑顔を返した。すると、言葉にして発音はしなかったが、「なんだよー」と話す口の形をした。会見が終わって総理に近寄り、「私が笑顔を作ったのは、今日も福祉の話でしょ、という確認のつもりでした」と耳元に語りかけると、嬉しそうに「うん、うん」と頷いた。

そこで次は周りにも聞こえる声で「世界福祉構想、広がりそうですか」と聞くと、「これだけ曲者揃いの場で皆の賛同を取り付けるのは容易ではないよ。その割には、聞いてもらえたとは思うけどね」と答えた。

このように政策面では律儀な人だったが、バブル崩壊後の不良債権堆積から北海道拓殖銀行や山一證券などの大手金融機関が破綻するなど、金融機関の後始末に追われて得意の福祉政策に存分に腕を振るえなかった。98年参院選で自民党敗北の責任をとって総理在任2年半で辞任してしまった。2006年7月病没、68歳という早逝だった。(一部敬称略、つづく)
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