2023年9月29日号 Vol.455

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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2度のキューバ、ハバナ訪問
カストロとの単独会見模索

1959年1月、ハバナに入ったカストロ(右)と革命仲間のカミロ・シンフェゴス(Photo public domain)

1990年代に2度、キューバのハバナを訪れた。1度目は94年の8月末、2度目は98年の3月だったと記憶する。

当時はむろん、キューバとアメリカは国交断絶状態で、アメリカから直にキューバに行くことはできない。フロリダから確かユナイテッド航空がチャーター便の名目で飛ばしていたが、これはアメリカ在住キューバ人の里帰り用で、一般旅行者は利用できなかった。

そこでまず、メキシコ・シティに飛び、そこでヴィザの発給を受けてハバナ入りするルートを選んだ。「夏休み」をとっての単身の旅だったが、私にはある下心があった。それが途方もない故に、同行者を連れて行くことも、旅の本当の目的を雇用者であるテレビ朝日にも明かせなかった。

キューバ革命を実践し、以後独裁者として君臨していたフィデル・カストロとの単独会見を模索したのである。手がかり・足がかりがあってのことではない。当時、取材を通じて知り合ったニューズウイークのシニア・エディター、ジョナサン・オルターに相談したところ、キューバ共産党機関紙グランマを訪ねて交渉してみてはどうか、と提案され、「こいつが力になれるとは思わないが、突破口にはなるかもしれない。彼は英語ができるから」と、ある記者の名前と電話番号を教えてくれた。

何事も試して見なくては実現しない。無謀・無計画と言えばその通りで、これを唯一の頼みにすることにしたが、ヴィザの申請は「観光」目的とした。

何と言っても、初めて訪れた時の印象が強烈だった。

メキシコ航空で降り立ったハバナの空港は、うら寂れた地方空港という感じだった。ジェットウエイなどはむろんない。タラップを降りた少し先に入国管理の小さな建物があって、到着客は歩いてそこに入る。「Buenos dias」 かろうじて知っていたスペイン語で「おはよう」を言ったが、窓口の職員は無表情。早口のスペイン語でまくしたてられ、慌てて「Sorry, I can't speak Spanish」――今度は日本語で「観光で、ハバナの何を見ますか?」と聞かれビックリした。「ジャーナリストね」と当方の職業にも関心を寄せる。しかし、こちらが日本語で答えると理解できない。英語にするとなんとか通じた。カタコトの日本語で聞かれ、それに英語で応答する珍妙な問答になったが、長居は無用と、帰りの航空券を見せ、観光に他意がないことを納得させて入国許可のスタンプを押してもらった。

タクシーは50年代のフォード。車内が大きいので、ゆったり座れる。都心まで15キロと言われた通り、あっという間に市内に入る。旧市街はスペイン植民地時代から定着したコロニアル様式の建物が並び、街並み自体が82年以来、世界遺産となっている。ホコリに汚れて美しくはないが、駆体はしっかりしている。その壮観に加えて、街路を走る自動車がすべて50年代アメリカの車なのだ。スチュードベイカーやパッカードなど、アメリカではほとんど見ることもなくなった車も当たり前のように走っている。「どうやって整備しているのだろう」と不思議に思いながらも、59年の革命時点で時間が止まってしまったように感じられ、第一印象は間違いなく「タイムスリップ」だった。

ご存知の方が多いと思うが、キューバという国は1898年の米西戦争でフィリピン、グアム、プエルトリコとともにアメリカの植民地となり、1902年に独立を達成したが、事実上はアメリカの保護国だった。当時のキューバ憲法にはアメリカによる内政干渉権が明記され、キューバ島の東端のグアンタナモ湾はアメリカが永久租借して海軍基地が建設された(租借料は金貨2千枚とされているが、キューバ革命後は最初の1年を除き、キューバ側が受取りを拒否している)。

とくに経済面では、独立直後からアメリカ資本が多数進出して製糖、タバコ、果実から電力に至る資源産業と金融を支配した。

さらに52年には軍人出身のフルヘンシオ・バティスタがクーデターで政権を握り、アメリカ政府・企業ばかりかマフィアとも手を組んで腐敗と弾圧の独裁政治を行なった。

こうした状況に不満を募らせたのがフィデル・カストロだった。

スペインのガリシア地方から移民して農場を経営していた裕福な家に生まれ、ハバナ大学で法律を学んだ頃から政治活動に参加。卒業して弁護士となり、貧困者の救済に挺身するうち、バティスタのクーデターに遭遇、憲法裁判所にバティスタを告発したが退けられた。

翌53年、130人の仲間と武装蜂起したが失敗して投獄され、55年に恩赦で釈放されるとメキシコに亡命。56年12月には後に革命の同志となるアルゼンチン出身の革命家チェ・ゲバラらとセールボート「グランマ号」でキューバ南西部グランマ州に上陸したが、ここでも仲間の大半を戦闘で失い、山岳地帯でのゲリラ戦に従事することとなる。

2年余にわたる政府軍との戦闘を経て、59年1月1日、ついにハバナに入城、バティスタを国外亡命に追い込んで革命を達成した。カストロは首相となり、まず手をつけたのが製糖業などのアメリカ資本に握られていた農地の徹底改革だった。土地と産業を国有化して農業の集団化を推進し、砂糖より食料になる作物の生産を奨励した。

カストロ自身は対米断絶を志向したわけではなかったが、アメリカが外交関係を断ち、CIAが中心となって亡命キューバ人による反革命軍を送り込む「ピッグス湾事件」などを起こすに及んで、冷戦下でアメリカと対立していたソ連に接近、やがて「核戦争寸前」とも言われたキューバ・ミサイル危機へとつながって行く。

カストロについては、単独会見が実現した時のために、旅行出発前の数週間にニューヨークの公立図書館などで関連資料を読みあさった。

宿泊したのは、旧市街にあるパレスホテル。1909年創業という格式あるホテルで、80年代に改装して91年に再開業したそうだが、室内設備や備品など、西側諸国の一流ホテルに泊まり慣れた身には必ずしも満足の行くものではなかった。到着翌日、ジョナサン・オルターに教えられた電話番号にかけてみたが目当ての人物につながらず要領を得ない。新聞社を直接訪ねることにした。社屋は新旧市街をつなぐ革命広場に面していた。

英語の通じない受付で苦戦しながらも国際関係のスタッフに会いたいと来意を告げると、やがてエディターだという中年の女性が現れた。単刀直入にフィデルとの単独会見を望んでいると告げると、さして驚いた風もなく、「彼はスペイン語を話す人としか会いませんよ。通訳を介した会見は可能性ゼロ」とニベもなく言い放って消えてしまった。「とりつくシマもない」とはまさにこれだなと諦めるしかなかった。

2度目の旅では国営テレビ局に伝手を見つけて仲介を頼んだのだが、「通訳付きはダメ」の口上は同じ。逆に、「ウチの番組で日本の話をしてよ」と頼まれたが、今度は私が「通訳付きはダメ」と断った。

2度の旅で不思議に思ったのは対米関係だった。公式の外交関係はないのに、新市街の海岸近くには7階建ての「利益代表部」という大きな建物があり、アメリカへの渡航を願うキューバ人たちの列ができていた。2015年7月、オバマ政権下で国交を回復した後は、そのまま大使館になったという。グアンタナモの海軍基地は依然健在。アフガニスタンやイラクで拘束したテロリストの収容所ともなり、拷問などが問題になった。(一部敬称略、つづく)
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