2023年10月27日号 Vol.457

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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常識を超えたS・ジョブズ
「Stay Hungry, Stay Foolish」

(写真左)ジョブズとマッキントッシュ・コンピューター。画面上の画像は、日本の版画家・装幀家、橋口五葉の「髪梳ける女」(1984年1月撮影)Steve Jobs and Macintosh computer, January 1984, by Bernard Gotfryd. Public Domain
(写真右)サンフランシスコで開催された「マックワールド・カンファレンス&エキスポ」のステージに立つジョブズ(2005年1月撮影)Jobs onstage at Macworld Conference & Expo, San Francisco, January 11, 2005, CC BY 2.0

1998年秋、アメリカ国内の出張から帰ると、テレビ朝日ニューヨーク支局にあった私のオフィスのデスクに流線型の美しい器具がデンと置かれていた。

その年発売されたアップル社のオールインワン・コンピューター iMac だった。15インチのスクリーンとロジックボード(電子基盤)が収められ、ユニークさが売りのアップル製品でも、これまでに見たことのない洗練されたデザインだった。

実は、これが私とコンピューターとの本格的な出会いだった。オクテと言って良いだろう。若い支局員らは、早くからそれぞれにパーソナル・コンピューター=PCを使っていたが、そうした波に乗り遅れていた。テレビ朝日側が見兼ねて私のために用意してくれたのだった。

一通りの使い方を教わってキーボードに向かう……たちまち、私はこの利器の虜になった。

国際会議やイベントの取材は別として、取材発起前の私のルーティンはと言えば、まず分厚い電話帳を繰って取材先を探す。見つけた番号に電話をし、あちこち回された挙句、首尾よく的確な相手が見つかれば初めてこちらの用件を話し、先方の都合を聞いて面会のアポを取る。テレビの取材だからカメラマンや音声の技術者、映像を作品に仕上げるディレクターが同行する。結構オオゴトなのである。

何をもとに取材を思い立ったかと言えば、東京からの注文も多かったが、独自ダネの取材は、新聞・雑誌やテレビなどアメリカのメディアが伝えたこと、知人との会話、街を歩いていて見聞きしたこと、日常生活の中で感じたことなどさまざまで、それを取材まで昇華させるには、私のデスク周辺にあった膨大な過去の取材ノートや資料、毎日欠かすことのなかった自前の切り抜き、図書館での関連書籍探索と読み込みなどのほか、この段階で電話帳を繰り、適切な情報源を見つけ出して質問をぶつける事前取材も重要な作業で、本格的な取材に取りかかる前に、かなりの手間ひまをかける必要があった。

コンピューターが入ったことで、こうした作業が無くなったわけではなかったが、情報の検索プロセスが楽になった。進行中の事柄について本筋や周辺の情報が集められるのはもちろんだが、過去の推移や歴史についても情報が得られる。ジャーナリストにとって、情報検索が容易になるのは煩雑な仕事が半分、時にはそれ以下になることを意味した。

とは言え、当時はまだ検索には時間がかかった。今日のようにワイファイなどがあって、キーワードを打ち込んでクリックすれば瞬時に情報が現れる、などということはなかった。電話回線を通じて接続するのが普通だったから、ネット自体の接続速度も遅かった。それでも頼りになったのは、やはりニューヨーク・タイムズやワシントン・ポスト、ウオールストリート・ジャーナルなどの有力紙やタイム、ニューズウイーク、USニューズなどの報道系週刊誌、そしてテレビの3大ネットワークなどのサイトで、彼らが蓄積する情報量は想像を超えたものだった。適度の忍耐心を持って、これらを丹念にウェブ・サーフィンすれば、私が探し求めた情報に接することが少なくなかったのだから、まさに「革命的」だった。

可能にした主役は申すまでもなくインターネットである。

インターネット・プロトコルと呼ばれるネット上のアドレス指定とコンピューター同士の接続に関する一連の要件を満たせば、国境など関係がない、世界規模で相互に接続できる情報通信網である。

これが普及し始めたのは90年代前半からであった。それを加速したのは95年に発売されたマイクロソフト社のWindows 95というオペレーティング・システムで、ここから業務用だけでないPCが劇的に普及することになる。マイクロソフトは、3年後にはWindows 98を出してさらに前進した。

マイクロソフトと言えばビル・ゲイツ、アップルと言えばスティーブ・ジョブズ……切り離せないライバルだが、一時期、ジョブズはアップルを退いていた。

「マッキントッシュ」で知られるアップルのコンピューターは80年代前半にはもう市場化されていた。しかし、製品を進化させて行く中で、創業仲間との軋轢・対立が深まり、85年には閑職に追いやられ、アップルを去ってしまう。しかし90年代に入ると、前述のマイクロソフトの急速な台頭などで、アップルの市場シェアは低下していった。97年に創業20周年を迎えたあと、ジョブズは暫定のCEOとして復権する。その翌年に発売されたのがiMacだった。

ジョブズの思想と感性が具現化された製品と言ってよかった。外見のデザインはもちろんだが、画面に現れる文字フォントや画像の精度が際立って美しかった。

残念なことに、ジョブズと対面で話す機会はなかったが、いろいろなところから入ってくる彼についての情報には、いつも強い関心を寄せていた。仏教に帰依し、版画をはじめ日本文化に深く傾倒していた。企業家として特に尊敬していたのが盛田昭夫氏で、ソニーのトランジスタやトリニトロン、ウオークマンなど革新的な商品開発に強く影響されたことを自ら語ってもいた。

iMacで始まった私とPCとの関係は、その後もアップルから離れることはなかった。デスクトップからラップトップへ、機種は変わっても私はマックとともにあった。いま、こうして使っているのも MacBook Pro、他にもアイパッドやアイフォンを使っている。

ジョブズへの敬意も変わることがない。

2006年に名古屋外国語大学から招かれて教壇に立つことになったが、国際関係論と並んで私の担当分野だった「現代アメリカ論」「グローバリズム総論」「ガヴァナンス総論」などの講義ではジョブズの人柄や業績に触れることが多かった。

中でも私が特に琴線を揺さぶられ、教材として頻用したのが、05年6月にジョブズがスタンフォード大学の卒業式で語ったスピーチのテクストである。

コミュニティ・カレッジさえドロップアウトした自らの青春時代について語り、両親の家のガレージで始まったアップル草創期について語り、自らの「死」についても語った。

「1年前、私は膵臓がんの宣告を受けた。医師から、もはや治療は不可能で、余命が3〜6ヵ月だから、家に帰って死を迎える準備をせよとも告げられた。ところが、その後間もなく、医師は、これは稀に治る膵臓がんかも知れない、手術しようと言ってきた。私は手術を受け、いま、この通り元気だ」と述べたうえで、「キミたちの人生も限られている。他人のために人生を浪費してはいけない。ドグマにとらわれてもいけない。若いころ、頻読した本があった。The Whole Earth Catalogという。そこに書かれていた言葉を皆さんに贈りたい」として、スピーチの最後に次の言葉を述べた。

「Stay Hungry, Stay Foolish」

それから6年後、11年8月にジョブズは「CEOとしての職責が果たせなくなったら話すと言ってきたが、その日が来てしまった」と辞意表明、10月5日に、この世を去った。膵臓がんの転移による56歳の死であった。(敬称略、つづく)
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