2023年11月24日号 Vol.459

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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経済激動の年に心強い援軍
金融4業種NYトップが全て後輩

頃は「ミレニアム=千年紀」とされた20世紀最後の年、2000年――前号で書いた「ドットコム・バブル」が頂点を迎えた時期、ニューヨークにいる私を心強い〝援軍〟が取り巻いていた。

私が卒業した東京教育大学(現・筑波大学)附属中学・高校はニューヨークにも多くのOB・OGがいて、「ニューヨーク附属会」が活動している。その会に、金融界の現地責任者がズラリ揃ったのである。

東京三菱銀行の畔柳信雄氏、野村證券の吉川淳氏、日本生命の宇治原潔氏、東京海上の成松洋氏……銀行・証券・生保・損保4業種で日本を代表する企業のニューヨークにおけるトップをすべて「附属」出身者が占めていたのだ。

卒業年次はいずれも私の1958年より若く、一番近かったのが2年下の畔柳氏、次に9年若い宇治原氏と成松氏(67年卒)で、一番若かったのが吉川氏(73年卒)だったから、先輩たる私の発意で招集をかけることができた。

畔柳氏は三菱銀行に入り、当時は東京三菱の取締役米州本部長だった。帰国後、04年に頭取となり、UFJとの合併を挟んでフィナンシャルグループの社長・会長へと栄進、全国銀行協会の会長も務めた。中学・高校時代はサッカー部に属し、高校では国体に東京都代表として出場、準決勝まで勝ち上がった経験を持つなどスポーツへの関心も深く、銀行を退いた後は、長く日本テニス協会の会長も務めた。旭日大綬章を叙勲されている。

宇治原氏は、日本生命の取締役米州総支配人・ニューヨーク事務所長として、市場における資産運用の最前線にいた。のちに本社の代表取締役副社長からニッセイアセットマネージメントの社長にもなり、退任後も中堅証券会社の社外取締役などを歴任した。

吉川氏は、当時まだ45歳の若さで取締役米州本部担当の職にあった。02年に帰国後は企業金融本部担当の取締役から野村アセットマネージメントの社長になった後、11年にニューヨークに3度目の赴任をし、野村ホールディングスの専務執行役員米州地域CEOを務め、さらに同社取締役代表執行役COO、ホールセール部門CEOから、野村不動産に転じ、会長職を務めた。

成松氏は、東京海上(現・東京海上日動あんしん生命)米国法人のニューヨーク事務所長の座にあったと記憶している。上記3氏とは帰国後も会合を開いて夕食会などで旧交を温めているが、成松氏だけは出席されていないので、その後の消息はわからない。

いずれにせよ、これだけの〝大物〟が周囲にいて、折にふれ夕食をともにしながら談論していたのだから、経済情報に不自由しない。社名、人名、発言の詳細を直接引用しないのは、むろん決まりきった話で、それぞれが忌憚のない意見を開陳してくれた。贅沢極まりなかった。

アメリカ経済は91年3月以来、史上最も息の長い拡大局面を続けており、90年代後半はITブームが高揚し、いわゆるドットコム企業の貢献度が非常に高かった。中央銀行たるフェデラル・リザーブは、グリーンスパン議長の主導のもとで景気対策としての金利操作を頻繁に繰り返していた。97〜98年に起きたアジア経済危機に際しては、98年9〜11月の3ヵ月間に市場金利の誘導目標となるFF金利を0・75%ポイント切り下げたが、翌99年6月には再び景気過熱を抑える利上げ軌道に戻り、01年1月までの間に1・75%ポイントも引き上げた。

00年の年明けはまだ「絶好調」の感が深く、1月10日早々、世界最大のインターネット接続企業だったアメリカ・オンラインがメディア界の巨人タイムワーナーを吸収合併するビッグ・ニューズが伝えられた。同月末のスーパーボウルでは、61あったテレビ中継のCM枠のうち12まではドットコム企業が買い取っていた。1枠の料金が190万ドルから220万ドルと言われた。

そして3月10日、NASDAQ市場の総合指数は5048・62という史上最高値に上り詰める。しかし、その後の3日間は逆に466ポイントも急落した。その13日という日は、日本でIT関連株が大量に売られ、深刻な景気後退への引き金を引いた日でもあった。アメリカ経済にとっても「ドットコム・バブル」がはじけたのであった。

企業の時価総額は急減し、ヴェンチュア・キャピタルが急速にしぼみ、IT市場に流れる資金量が激減する。当時、ドットコム企業の寿命は、バーン・レイトと呼ばれる資金燃焼率、つまり手持ち資金が燃え尽きるまでの期間を表す数字で測れるとされた。多くのドットコム企業が資金不足に陥り、清算に向かわざるを得なくなった。こうした企業の将来性に賭けて、多額の資金を注ぎ込んでいた投資家たちには恐慌が訪れる。

このように、00年から01年にかけてはアメリカ経済にとって激動の年であった。そういう時期に俊秀ぞろいの後輩たちに恵まれた私はまさに幸運であった。

私はこの時期に、移り気と言えるほど変化の激しい金融市場をウオッチする目的で毎日の指標を記録する作業を始めた。これは今でも続いており、ニューヨーク市場のDOW、NASDAQ、S&P500の株価3指数はじめ、円の対ドル・対ユーロ換算レート、10年と5年の米国債金利、金価格、WTO原油価格と東京市場の日経平均終値を毎日欠かさず記録している。そのためのノートが、もう4冊目に入っている。(つづく)
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