2024年2月9日号 Vol.463

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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至福と役得の全米オープン
レジェンド達との出会い

テレビ朝日との長い出演契約の間に、ゴルフ中継の解説陣に加わったこともあった。

全米オープン・ゴルフを生放送で中継する権利をテレビ朝日が取得、首都ワシントン郊外のコングレッショナルCCで行われた1997年から、ニューヨーク郊外のベスページ州立公園にある公設コース、ブラック・コースでの2002年まで6年続いた。

解説陣の主軸は、永年アメリカ・ツアーに参戦し、日本選手として初勝利も挙げた青木功で、専修大学出身のレフティ羽川豊と、ゴルフ・キャスター戸張捷、テレビ朝日のアナウンサー森下桂吉が常に一緒だった。

ロサンゼルス時代に始めたゴルフにハマって、アメリカで暮らした時代を通じ、私にとってはいちばんの趣味だったから、プロゴルフ界の情報に無縁だったわけではないが、所詮は平均的なアマチュア・ゴルファー。そんな私に中継参加の機会が来たのは、素人っぽい感想を述べるだけでなく、仮設スタジオを並べて全米向けに生放送していたNBCの放送音声を左耳のイヤ・ピースで聞いて、特に解説者の有名プロ、ジョニー・ミラーが何を言うか――必要に応じて、それを伝えるのが私の主な役目とされたからだった。

ミラーとは、生放送の前後にスタジオ周辺で会話をした。

「時々だが、あなたが放送で言われていることを日本の視聴者に伝えている」と話すと、「日本にも熱心なゴルフ・ファンがいることはよく知っている。ボクを応援してくれた人も沢山いたしね」と大層喜んでくれた。ついでに、その日までの戦況に応じた「勝馬予想」をしたり、ミラーの方から「AOKIは誰が良いと言っている?」と聞いてきたりして、話に花が咲いた。

それにしても、ゴルフの一流プロ、キャスターと席を同じくして全米オープンの展開を現場で見られるのだから、ゴルフ好きにとっては応えられない至福の時間だったし、放送が終わった後、出演者全員でとる夕食の席が談論風発でまた楽しかった。

私も、1980年の全米オープン、「バルタスロールの死闘」とまで言われた帝王ジャック・ニクラウスと青木功の戦いを振り返って話した。

ゴルフ史に残る「バルタスロールの死闘」のハイライトは、United States Golf Association (USGA) チャンネル(以下)で視聴可
https://youtu.be/T-xvtG0_UOI?si=Mh7GJmDx-hP1VvVQ

6月12〜15日までニュージャージー州スプリングフィールドのバルタスロール・ゴルフクラブで開かれた大会で、私はこの年秋に、テレビ朝日と専属契約を結んでロサンゼルスからニューヨークに転居したのだが、これは、その話が具体化する直前の話……

青木は第1ラウンドからニクラウスと組んで回った。青木38歳、ニクラウス40歳、共に油の乗り切った年齢だったが、さすがの帝王も、この年はパッとしない成績でナショナルオープンを迎えていたが、初日から63を叩き出して首位に立つと、青木も5打差・68で食い下がり9位タイ。第2ラウンドではニクラウスが1オーバー・71と足踏みしたが、青木は前日同様68で回って2位タイに浮上、決勝ラウンドもニクラウスとのペアとなる。そして第3ラウンド、青木は3日連続68のスコアで、この日70のニクラウスに並び首位タイ――これで4日間、ニクラウス=青木のペアとなり、決戦の舞台は整った。

ファイナル・ラウンドは2番で青木がボギー、3番でニクラウスがバーディをとって前半から2打差をつけられた。その差は17番まで変わらず、バルタスロールの上がり2ホールズはパー5が続く。その17、18番でニクラウスは勝負を決める連続バーディを取った。4日間のトータル272は当時のトーナメント・レコードとなる。青木も連続バーディで締めたが、2打差は変わらず及ばなかった。

まさに「死闘」と言うに相応しい戦いだった。ロサンゼルスの自宅でテレビで見ていた私も興奮が冷めない。上気したまま妻を誘って当時メンバーだったゴルフクラブに出かけた。バルタスロールは東海岸で3時間の時差がある。終わってからでも西海岸のLAでは十分回れるのである。クラブに着いてスタートの準備をしていると、仲の良かったメンバーが「Congratulations! That was exciting game.」と祝福してくれたのが嬉しかった。

それを話す私の誘い舟に青木が乗った。「前半は上がってたのかなぁ、地に足がつかねぇ感じだった。そしたら(妻の)チエから、イサオ、何やってるのヨ、って叱られちゃってさ。それで我に帰った、って言うかな」――すると、戸張捷がすかさず切り込む。

「あの時、ボクはNHKの中継で現場に行ってた。スタート前にチエさんから、イサオが緊張しちゃってるのよ、できるだけ傍に居てあげて、と頼まれた。でも話しかけるわけには行かないから、さりげなくリラックスした顔で青木さんの視界に入るようにしていた」

全米オープンの生中継を手伝う中で、役得もあった。98年大会はサンフランシスコのオリンピック・クラブで開かれたのだが、数ヵ月前に取材する報道陣のために「プレス・プレヴュー」があって参加できたことだ。名前は聞いていたが、エクスクルーシブなプライベート・クラブで普段は近寄ることもできない。そこのホテルに泊まって、全米オープンのコースでのプレイを堪能できたのである。

また、大会中、スタジオを出てコースを歩いたことが1日だけあった。

2000年6月16日――カリフォルニア州ペブルビーチで開かれた大会2日目。ジャック・ニクラウスの組について回ったのだ。

1961年、ミシガン州オークランド・ヒルズで開かれた大会。伝説のゴルファー、ベン・ホーガンとペアを組み、優勝を争って4位に入って40年、帝王と呼ばれるまでになったニクラウスも60歳になっていた。連続出場44回目にして、これが最後のオープン出場になると誰もが理解していた。

ペブルビーチでは、72年に全米オープン3度目の優勝を飾っている。その時、パー3の17番を1番アイアンで打って奇跡に近いホールインワンを記録していた。開幕前「ここより良いコースはあるかも知れないが、良し悪しよりペブルビーチがここにあることが好きなんだ。全米アマで初めて練習ラウンドした時から、ドラマチックなコースのトリコになった。父の日の日曜日に18番ホールを歩いていたら最高なんだがな」と、仰ぎ見るように語っていたニクラウス。

初日は2オーバー73のスコアで、メイク・カットに望みをつないだが、2日目は、そうは行かなかった。ここ特有の気まぐれな風が吹き、コンクリートを固めたようなグリーンがパッティングを至難にする。「nasty=意地悪」とされた持ち味が随所で存分に顔を出してニクラウスを苦しめ、10番を折り返す頃には絶望的になった。この日のスコアは何と11オーバー82。

それでも545ヤードの最終18番、3番ウッドで打った第2打が、この時だけ左側の太平洋から吹く優しい微風に乗せられてグリーンに届いた。歓呼で迎える大観衆に特上の笑顔で答えた。プレー後の会見で「この20年試したことなかったんだが、今日は最後だからやってみた。上手く行ったよ」と満足げに話した。が、それを3パットして最後のバーディは取れなかった。

父の日には2日先んじたが、ホールアウトしたニクラウスを迎えたのは、バーバラ夫人と5人いる子どものうち3人だった。その4人とハグを繰り返す蒼い目に、涙が浮かんでいた。稀代のプレイヤーがアスリートとして最後の瞬間を迎えた時の美しい光景だった。

因みに、この大会の勝者はタイガー・ウッズだった。(敬称略、つづく)
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