2024年4月12日号 Vol.467

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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冷戦後の新たな対立地図
「対テロ戦争」の幕開け

アメリカがアルカイダの同時テロ攻撃を受けた2001年9月11日、大統領就任から8ヵ月のジョージ・W・ブッシュはフロリダにいた。選挙で公約した「どの子も置き去りにしない」教育改革策の一環で、公立小学校の朗読会を参観していたのである。首席補佐官から2機目のUA機が世界貿易センター=WTCに突入したと耳打ちされた後も、ブッシュは7分間、朗読を聞いてから控え室に戻った。「戦時の大統領となり、重大な責任を負うことになる」――立ち上がって専用機のいる飛行場に向かった。

その車中で、ペンタゴンも攻撃されたことを知る。専用機に乗り込んだブッシュは副大統領のディック・チェイニーに電話をかけた。「アメリカが戦争に巻き込まれたようだ。負けてたまるか」。専用機は、首都ワシントン郊外のアンドリュース空軍基地には直行せず、南部の空軍基地を経由して、首都周辺への危険が去ってから帰途についた。

ホワイトハウス内部で、ウサマ・ビンラディンを首領とするアルカイダの仕業と断定していたことは言うまでもない。ブッシュは、その日のテレビ演説で「テロ攻撃はビルの基盤を揺るがしたかもしれないが、米国の基盤に触れることはできない」と述べ、犯行に加わったテロリストに厳しい報復で臨む姿勢を示した。そして、この戦いを「War on Terror=テロとの戦い」と宣言し、世界に向け「我々の側につくか、向こう側につくか」と二者択一を迫って行く。

ニューヨークの国連本部では、同時テロ翌日の12日に緊急安保理と総会が開かれ、アメリカに哀悼の意を表し連帯する決議が満場一致で採択された。28日には、テロ対策を全世界に義務化する安保理決議が採択された。

2001年9月14日、WTCを訪れ事件現場で活動する救助隊員たちを激励したブッシュ大統領 (Photo by SFC Thomas R. Roberts/ NGB-PASE, Public Domain)

ワシントンの連邦議会も14日、テロを計画・承認・実行・支援したと大統領が判断した国家・組織・個人に対し、必要で適切な軍事力を行使する権限を大統領に与える合同決議を上院98対0、下院420対1で可決した。

ブッシュは、アフガニスタンを実効支配していたイスラム教スンナ派のタリバン(神学生、求道者などの意)政権に対し、首謀者ビン・ラディンの身柄引渡しを求めたが拒否された。10月7日、国際テロを防ぐ防衛戦として「Operation Enduring Freedom=不朽の自由作戦」を発動、アフガニスタンへの空爆を開始した。イギリス、カナダ、オーストラリア、ドイツなども集団的自衛権行使の名の下に参戦、米軍は、アメリカ本土はじめ、クウェートやインド洋のディエゴガルシア島の基地、洋上の航空母艦から発進した航空機とミサイル巡洋艦などから1万2千発の爆弾をアフガン領内に投下、2021年のバイデン政権による完全撤退まで、20年に及ぶ最長期の軍事行動の火蓋を切った。

日本も有志連合の1員として協力を求められ、11月2日施行のテロ対策特別措置法で、海上自衛隊の護衛艦2隻と補給艦1隻をインド洋に派遣、各国艦船への補給任務に当たった。

地上戦闘には、タリバン支配に反対していた北部同盟などのアフガン軍閥も加わり、11月13日には首都カブールを制圧、タリバンの指導者ムハンマド・オマルは、後に建国されたアフガニスタン・イスラム共和国の初代大統領となるハーミド・カルザイを通じて「降伏」を申し出たが、アメリカは認めなかった。その直後、ドイツのボンで国連召集の会議が開かれ、暫定政府の立ち上げとともに、国際治安支援部隊ISAFと、国連アフガニスタン支援ミッションUNAMAの設置などが合意された。

タリバンや、ビン・ラディンはじめアルカイダの兵士たちは、カブールが制圧されると、都市部を放棄してソ連と戦闘した時代にパキスタン国境に構築した地下要塞に立てこもった。米軍は、かつてのソ連軍同様、空爆ではこの要塞を破壊できなかった。国境地帯は広大ではあったが、2〜3千の兵力を持つ米軍が包囲してビン・ラディンらを逮捕することはできたかも知れない。が、リスクを恐れて部隊を展開せず、北部同盟やパキスタン軍に攻撃を命じた。

アフガニスタンの軍閥は総じて戦意が低く、パキスタン軍はヘリコプターの不足を理由に地下要塞に効果的な攻撃をかけなかった。これがビン・ラディンらの長期延命を可能にし、タリバンを壊滅から救うことになった。

アフガニスタンには暫定政権ができ、国づくりして、大統領や立法府の選挙も行われたが、民主主義は根づかず、安定しなかった。米軍は物量にモノを言わせる正規軍同士の正面戦闘には強かったが、ゲリラ戦は得意でなかった。事実上の敗戦で終わったベトナム戦同様、アフガンの戦いでも、タリバン勢力を一掃することができず、いたずらに時間を浪費して、2・3兆ドルもの直接戦費のほか、退役軍人の療養費に2・2兆ドル、後に戦線を拡大したイラクやシリアに2・1兆ドルなど莫大な支出を迫られた上、7千人を越す兵員の死者を出し、撤退後はタリバンが復活して政権を握るという惨憺たる結果で終えた。

ISAFは当初、有志国による多国籍軍だったが、03年8月にはNATO=北大西洋条約機構に移管され、非NATO国も含め43ヵ国から7万人以上が参加。14年末に任務を終えるまでの13年間に約3500人の犠牲者を出した。

アフガン戦線が膠着する中、ブッシュは新たな戦争を目論んだ。イラクに攻め込んで、サダム・フセインを血祭りにあげようとしたのである。父親の41代大統領ジョージ・H・Wは、91年の湾岸戦争でクウェート侵攻のイラク軍は追い払ったが、イラク領内への追撃は断念してサダムを撃ち漏らし、「弱虫」とも評価され、それが大統領に再選されなかった一因とする見方もあった。息子の43代ブッシュがその屈辱を晴らそうとしたのかは定かでない。

ブッシュは、①イラクが大量破壊兵器を隠匿、②サダムの独裁と圧政、③サダムとアルカイダに協力関係がある可能性――などの理由を挙げてイラク侵攻を決断した。ドイツ、フランス、中国、ロシアなどが強く反対したため、軍事侵攻への安保理決議は取れず、イギリス、オーストラリア、ポーランドなどと連合して、3月20日、「Operation Iraqi Freedom=イラクの自由作戦」を発動した。戦闘は順調に進み、4月9日に首都バグダッドが陥落、サダムを大統領とするバアス党政権は崩壊、5月1日にはブッシュ自らが「Mission Accomplished=任務完了」を宣言して大規模戦闘を終えた。

宣言後も、開戦目的となった大量破壊兵器の探索を続けたが、アメリカの主張を裏付けるものは見つからず、アルカイダとの協力関係も立証できなかった。ブッシュは面目を失ったが、国内外で責められることはなかった。

逃亡したサダムは、12月13日、サダムの拘束を目的とした「Operation Red Dawn=赤い夜明け作戦」によって、イラク中部の隠れ家で逮捕され、特別法廷で死刑判決を受け、06年12月30日に処刑された。

その後も治安維持の名の下で小規模の戦闘が続き、11年12月14日、バラク・オバマによる完全撤収までに米軍は4千5百人近い戦死者を出したが、この戦争でアメリカが得たものはほとんどなかった。

日本は平和維持活動=PKO以外で初めてとなる地上部隊派遣に踏み切り、陸上自衛隊がイラク南部に駐留してインフラ整備と治安維持の任務にあたった。

ところで、 September 11の報道に当たった私とニューヨークのスタッフには、「精力的かつ的確な報道に努めた」として、テレビ朝日の「社長特別賞」が授与された。私あての金一封には、手の切れそうな新札10枚が入っていた。むろん賞のために働いたつもりはないが、評価されたことは喜びだった。(敬称略、つづく)
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