2024年4月26日号 Vol.468

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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第28回G8「隠れ家サミット」
テロへの戦慄と恐怖

アメリカに対する同時テロ攻撃の翌2002年、本格統合への動きを続ける欧州連合EUの15加盟国(当時)のうち12ヵ国で共通通貨ユーロの紙幣と硬貨の流通が始まった。89年の東欧革命で社会主義統治を放棄した東欧諸国はEUへの統合に向け、国内諸制度の対応整備を急いでいた。旧ソ連に属していたバルト3国を含め10ヵ国が一気に加盟を果たす「東方拡大」までにはまだ2年の月日が必要だったが、グローバリズムの波は、この時点ではまだ音高く欧州を覆っていた。

年初から航空機事故が多発した年でもあった。1月16日にインドネシアのガルーダ航空機がジャワ島の川に不時着水して客室乗務員1人が死亡したのを皮切りに、4月15日には中国国際航空機が韓国・金浦空港への進入に失敗して墜落、乗員乗客128人が全員死亡、5月7日には中国北方航空機が乗客の自殺で墜落、乗員乗客112人が全員死亡、5月25日にも台湾の中華航空機が澎湖諸島上空で空中分解して海上に墜落、乗員乗客225人が全員死亡……と相次いだ。

G8出席者(左から): ベルルスコーニ首相(イタリア)/ シュレーダー首相(ドイツ)/ ブッシュ大統領(アメリカ)/ シラク大統領(フランス)/ クレティアン首相(カナダ) / プーチン大統領(ロシア)/ ブレア首相(イギリス) / 小泉首相(日本)/ アスナル欧州連合・理事長/ プロディ欧州連合・委員長

この年、主要国首脳会議G8の議長国となったのはカナダだった。9・11で現実となった国際テロへの戦慄と恐怖が消えず、世界中の反体制派が過激行動に出る「反抗期」のような騒然とした空気にも包まれる中、前年のイタリア・ジェノヴァのサミットで反グローバリズムの大規模デモで死者が出たこともあり、カナダはG8サミット開催地を、前年に発表していたアルバータ州最大の都市カルガリーから、人里稀な隠れ家のような所に急遽移す決断をした。安全を確保したい一心だった。

カナナスキス・ヴィレッジ。アルペン・スキー競技に関心が深い方なら、88年カルガリー五輪の会場となったリゾートであることを微かに記憶されていたかも知れない。

ロッキー山脈東麓に抱かれた人口150人余の寒村。プレスセンターが置かれたカルガリーから100キロ近く離れている。後にも先にも、これほど辺鄙で、取材陣から遠隔の地で開かれたサミットを私は知らない。6月24日、開幕前々日に着いた私たちには、首脳会議場の下見ができないどころか、村に近づくことさえ許されなかった。だから、私たちは「サミットの現地取材」と言いながら、会議の場所も室内も、それを取り巻く周りの景色も地形も……知らないづくめの仕儀となった。

〝隠れ家サミット〟を主催したカナダの首相クレティエンは、カルガリーからカナナスキスに至る主要道路を全て閉鎖し、上空には空軍のジェット戦闘機と多数のヘリコプターを配置して監視と警備に当たらせ、地上では5千〜7千人と言われる警察官と軍人を動員してカナダ史上最大の治安作戦を実施した。カルガリー市内の商店主らは板で覆って暴徒対策とする物々しさ。各国からやってきた取材陣も、軽食や日用品の調達に苦労した。

クレティエンはさらに、「サミットの原点に立ち戻ろう」と、宣言などを廃止、行事を簡素化して、首脳同士の密な話し合いの時間を多く取る議事運営を行なった。

議題も絞り込み、同時多発テロ事件後のテロ対策と主要国の協調強化、前年11月のWTO=世界貿易機構ドーハ会議から、この3月の開発資金国際会議、8月のヨハネスブルグ・サミットに連なる一連の開発関連国際会議におけるアフリカを主とした開発問題、それに関連してアフリカ諸国に自助努力を促す「アフリカ開発のための新パートナーシップ=NEPAD」などを軸に議論を展開する方法をとった。

アフリカ開発が重要議題となったことで、アリジェリア、ナイジェリア、セネガル、南アフリカの首脳に加え、ガーナ出身の国連事務総長コフィ・アナンが招かれ、討議に参加した。その結晶として、前出のNEPADに対する協力と支援の基礎となる対応策を網羅した「G8アフリカ行動計画」という文書が採択された。

内容としては、「アフリカの自立促進」が強調されたことから、支援対象を選別することとし、優れた統治、法の支配、経済成長、貧困削減などで一定の成果を上げている国とのパートナーシップを強化し、国民の利益と尊厳を無視する国は援助の対象から外した。支援の具体策としては、武力紛争の解決と後始末(地雷撤去なども含む)、内政ガヴァナンスの強化、貿易・投資・持続可能な開発強化と、債務救済に向けた資金援助などが盛り込まれた。G8は、「先進主要国」を意識して、アフリカ支援策を打ち出すことが少なくなかったが、方向性と具体性という点では、この年の成果が出色だった。

アフリカでは、直後の7月9日に、「独裁者クラブ」と評判の悪かったアフリカ統一機構が改組され、EUに範をとったアフリカ連合=AUが設立された。

2度目の出席となった小泉純一郎首相は、この議題に入ると、「アフリカ問題の解決なくして21世紀の世界の安定と繁栄はない」として、93年から3〜5年おきに開催しているTICAD=Tokyo International Conference on African Developmentの取り組みなども踏まえ、当時はまだかなり潤沢に支出していたODA=政府開発援助を重点投下する方針などを述べて歓迎され、大いに面目を施した。因みに、このTICADは既に8回開催されて現在も続いており、9回目は25年8月に横浜で開くことになっている。

サミット宣言が廃止された代わりに「議長サマリー」が初めて発出された。

冒頭に「この会合は、9月11日の悲惨な事件以降の我々にとり最初の会合である。テロリスト及びそれを支援する者が、無垢の市民及び我々の社会に対して及ぼしている脅威について議論した」と述べ、「テロリストへの支援及び聖域を否定し、テロリストを法に照らして裁き、テロリストによる攻撃の脅威を減少させるための持続的かつ包括的行動をとることにコミットする。テロリストまたはそれを匿う者が、核・科学・放射性及び生物兵器、ミサイル並びに関連物質・機材及び技術を取得または開発するのを防止する6つの不拡散原則について意見の一致を見た」として、「大量破壊兵器及び物質の拡散に対するG8グローバル・パートナーシップ」の立ち上げを宣言した。

この部分は、アメリカのブッシュが強く主張したもので、この想いが翌年のイラクへの軍事侵攻につながってゆく。

またサマリーの結びに近い「国際の平和及び安全」に関する項では、「我々は、イスラエルとパレスチナの二つの国家が、安全が認められた国境の中で併存する構想を基礎とする中東平和達成に向けた作業に対するコミットメントを強調した」と書き込まれた。

93年の「オスロ合意」でパレスチナの暫定自治が決まり、ようやく動き出したかに見えた中東和平プロセスは、国境の確定や、エルサレムの帰属問題で対立が深まり、第2次インティファーダ(パレスチナの抵抗活動)も起きるなどして後退の印象が強まっていたが、この年2月にサウジアラビアのアブドゥッラー皇太子が「イスラエルが全占領地から撤退すれば、国家として承認する」と提案、3月27日には、アラブ連盟が「アラブ和平イニシアティブ」を満場一致で採択するなど、盛り上がってきた和平への空気を逃すまいとの意欲の現れだった。ただこの時も、和平に消極的としか言いようのないイスラエル保守派に足を引っ張られて進展はしなかった。

カナナスキスでのサミットは6月27日に幕を閉じ、翌28日はニューヨークに戻る移動日なのだが、その28日に私が出演する定例番組(日本時間では29日朝)があった。カルガリーからニューヨークに飛ぶ商業便では、番組の時刻に間に合わないことがわかり、小型ジェットをチャーターして帰途についた。これも、アメリカ暮らしの中で後にも先にも例のないことであった。(敬称略、つづく)
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