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「ニュースステーション」第一回放送は プラハからの中継
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を借り出して閲覧した。   年代のチェコスロバキ アは、社会主義国の御多 分に洩れず、中央集権 統治による政治・経済・ 社会の硬直化がもたらす 日常生活の不自由さに対 する民衆の不満が高まっ ていた。状況打開のため、
は、当初、過激で急速 な自由化要求がソ連軍の 戦車で粉砕された 年ハ ンガリー暴動の教訓に学 んで、宗主国ソ連との対 立を回避するため、共 産党の指導体制を維持 した漸進的改革を指向 したと言われるが、自由 化を求める民衆の強い欲 求に後押しされた党内改 革派の圧力で、次第に急 進的改革に重心を移して 行く。  4月に党中央委員会 が採択した「行動綱領」 には、「強権による一元 的統治の是正」をはじめ、
戻っていた。
 私がニュースステーショ
ンの第一声を上げたイン
タービジョンのスタジオは、
市街地からモルダウ川を
挟んだ西の対岸にあった。
 プラハの春を作り出し
たドゥプチェク第一書記
は、ソ連・ 軍によ
る占領後も第一書記の地
位にとどまったが、 年
4月に開かれた世界アイ
スホッケー選手権(ストッ
クホルム)におけるソ連
代表との戦いに興奮した
民衆の一部が駐留ソ連軍
やアエロフロート・ソ連
航空の事務所などを襲
撃する事件が起きた責
任を取る形で第一書記を
辞任。その後連邦議会
議長や駐トルコ大使を務
めたが、 年6月に解
任、共産党を除名され
た。その後はアンナ夫人
と故郷のスロバキア、ブ
ラチスラヴァ市郊外に隠
遁して姿を見せることも
なかった。市民たちに聞
き回っても、当惑顔で「プ
ラハの春は遠い出来事」 一滴の血も流さない「ビ
 私がテレビ朝日と関係 結んでいた。そこに仮設 を結ぶことになった『Big のスタジオを設けたので News Showいま世界は』 あった。 という番組は、1983  まだ冷戦下、東側陣 年から『 スクープ』と 営の動向をリポートする 名を替えて、金曜夜の同 ことで、新番組のグロー じ時間帯で放送を続け バル性を強調する意図だ た。局側の大いなる期待 ったのであろう。東側の にもかかわらず、視聴率 盟主ソ連では、この年3 はひと桁台の低空飛行だ 月、 歳のミハイル・ゴ ったが、この番組の企画・ ルバチョフが書記長に就 実現に主役を果たした小 任していた。ペレストロ
パークにある公共図書館 だ。「知の殿堂」と言わ れるだけあって、「プラハ の春の資料が欲しい」と 司書に伝えると、百科事 典に始まって単行本から 雑誌までリストをどっさ り示してくれる。百科事 典は自宅でも読めるので、 とりあえず事件当時の
年初めに就任したアレ クサンデル・ドゥプチェク 共産党第一書記が、「人 間の顔をした社会主義」 を掲げて改革に乗り出 す。ドゥプチェク氏自身
ロバキア全土を占領した。  当時のニューヨークタイ ムズは「ソ連の兵器カタ ログにある最新・最先端 の兵器で武装した 万の 兵士が雪崩れ込んだ」と 伝えた。
田久栄門氏は、年に1、
イカ、グラスノスチ、新 思考外交などゴルバチョ フ新書記長の看板政策 はまだ明確に提起されて はいなかったが、これま
2度一時帰国するたびに、 「内田さん、ウルトラ
「市場機能を導入する
経済改革」、「西側との
経済関係強化」、「言論
の自由化」......など、当
時まだ健在だったソ連の
ブレジネフ書記長が聞け
ば憤激しそうな項目が
書き込まれた。そして6
月には、これらを網羅し
た「2千語宣言」が発表
され、力付けられた民
衆が各地で街頭に繰り出 ッサンス、バロック期と、
を考えていますからね」
とささやいていた。
 そのウルトラ が『ニュ でのソ連のリーダーとは ースステーション』だった。 ひと味もふた味も違う
  年 月7日の夜 時に始まったこの番組は、
新鮮な政治家が登場し たことはハッキリしていた。 新しい時代が来る予感が 漂っていた。  しかも、このプラハは
のアナウンサーか ら司会者になった久米宏 氏をアンカーに迎え、月 曜から金曜までのベルト
年に「プラハの春」の舞 台になったところだ。  出張の要請を受けてか ら大急ぎで資料探しを 始めたが、インターネッ トで検索すれば山ほど情 報が見つかる現在とは大 違い。新聞社のmorgue =資料室に駆け込めば 話は早いのだが、ニューヨ ークの新聞社に頼める友 人はいない。となれば図 書館――すぐに思い浮か んだのは、ブライアント
で放送されることになっ た。その初回の放送を、 私はチェコのプラハで迎え る。  当時プラハには、イン タービジョンと呼んでいた 東側諸国のテレビの連合 組織が置かれていた。正 確に言えば、インタービ ジョンは =国際 ラジオテレビ機構という 組織で、テレビ朝日はこ の組織と親密な関係を
 この運動は、同年 月、
国際ジャーナリスト 内田 忠男
TIME、Newsweekなど
 それから 年を経たプ ラハを、中心部のヴァー ツラフ広場(広場といって も、札幌の大通公園のよ うな形で事実上は大通 り)に面したホテルの窓 から眺めているうちに、 当時の民衆の熱狂と、そ れを蹴散らしたソ連軍の 弾圧の光景が甦る気がし たものだった。  プラハは、建物の赤い 屋根と林立する尖塔の美 しい街である。市街地の 北から西へ、そして南へ ゆったりと流れるモルダ ウ川のほとりに、ロマネ スクからゴシック、ルネ
し、改革への意欲がさら に高まる。  これを見たソ連高官 は「反革命」の兆候とし て、ワルシャワ条約機構
中世以来の古い建物が並
び、そこに「百塔のプラハ」
と称される尖塔が数多く 一、カレル大学の教授が 立っている。第二次大戦 匿名の約束で「人々の心 終戦直前の 年2月に、 は冷え切ったわけではな アメリカ軍が当時占領し い。何かのキッカケさえ
ロード革命」として完結。 ドゥプチェク氏は連邦議 会議長として政界に復帰 した。民主化後は、チェ コとスロバキアの連邦制 解消(分離独立)に向け て働いていたが、その最 中の 年9月、交通事 故に遭い、それがもとで 同年 月に死去した。
の加盟国に結束 と、チェコ情勢への監視
ていたナチスドイツ軍攻 撃のため激しい空爆を行 なって大きな被害を受け たが、社会主義下でも、 破壊された寺院などを 復旧して美しい街並みが
あれば、自由を求める熱 情が再び呼び覚まされる はずです」と語ったのが 印象に残った。  けれども、東側の国営 ラジオテレビの集合体か
を強めるよう指示する。 ドゥプチェク第一書記は、 ソ連、 諸国と会 談を重ねはしたが、改 革の後戻りには応じず、
(つづく)
8月 日夜、ついにソ 連軍戦車に先導された 軍が国境を越え て侵攻、瞬時にチェコス
ら借りたスタジオで、こ うしたことを口にするこ とは、まだできなかった。 チェコスロバキア、ポーラ ンド、ハンガリーなどの 東欧諸国と西側諸国と の経済関係の実情などを 語って、東欧諸国の物資 不足と経済苦境を遠回 しに述べるしかなかった。 ◇  ドゥプチェク氏は、それ から3年後の 年、ボロ ーニャ大学から名誉博士 号を授与されるためイタ リア訪問を許され、その 際、イタリア共産党機関 紙「ウニタ」との会見で自 らの政治信条を披瀝して 国際社会に再登場した。 翌年、劇作家ヴァーツラ フ・ハヴェル氏率いる「市 民フォーラム」が共産党に よる全体主義支配打倒 に立ち上がると、その運 動を公然と支援、ヴァー ツラフ広場の演壇にも登 場して民衆の歓呼を受け た。
としか答えなかった。唯
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