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 よみタイムについて
 
 
よみタイムVol.118 2009年8月7日号掲載

NY共同貿易社長代行 山本耕生
日本食シェフのためのプロショップ「カリナリーセンター」をオープン
人間を信じることが基本です」
会社に入って新しい自分発見

 日本各地からの陶器や地酒、スシロボットから割烹着、下駄にいたるまでプロの日本食レストランのシェフが必要なものは何でも揃えている。
 ミッドタウン45丁目3番街に3000平方フィートの広さの店内は、ゆったりしていて、今後、日本食に関わるセミナーやイベントも行っていきたいという。
 「日本食をアメリカ人に広めていきたい」と一般の人でも自由に出入りできるようにガラス張りで中が見えるように設計してある。
 「毎日、100人以上の人が来て陶器など買っていくんですよ。皆さん、随分、日本文化に興味があるみたいですね」とうれしそうに笑う。
 大手輸入会社、共同貿易(本社ロサンゼルス、金井紀年社長)の社長代行としてニューヨークに赴任してきたのは、07年9月だった。
 「ニューヨークから世界に日本食文化を発信したいんです。今、新しい日本食が、ここマンハッタンで生まれ、全米そして海を渡ってヨーロッパ、中近東まで広がっています。この街できちんとした形で日本食が根付けば、必ず世界に広がります」と信じ切る。

 名古屋生まれだが、京都・銀閣寺近くの北白川で育った。父親は判事から大手新聞社の政治部記者。さらに京都市の幹部職員と輝かしい経歴をつくった。子どものころは父が新聞記者で「何時も家にいない」と嫌だった。地元の名門、京都府立鴨沂(おおき)高校(山本富士子、田宮二郎などが卒業)を卒業のあと同志社大学経済学部へ。就職は「将来安定している公務員になりたかった」と京都市役所を受けた。1000人以上受験して11人しか受からない難関を突破した。
 ところが父親から「男子一生の仕事ではない」と強く説得され、京都に本社のある宝酒造の試験を受けて入社した。
 最初は経理部に配属。このまま、定年まで経理畑でいくものと思っていた(当時は、入社時の職務で会社人生を全うするのが普通)。先輩から「税理士資格をとれば良いよ」といわれ、本当に税理士を目指した。
 しかし、5年後人事部へ配属。そこで、大阪万国博覧会の年(70年)に、日本は資本自由化の年を迎え、当時の社長から、海外事業の開発の特命を受け、日本で最もイメージの高かったサンキストレモンのサンキスト社(米、カリフォルニア)と業務提携して「 サンキストレモン リキュール」の開発に携わる。万博会場のサンキスト館で新発売、そして、当時人気NO・Iの歌手、小川知子をCMに起用して大ヒットさせた。
 また海外から、スコッチウイスキー(英)、ボルドーワイン(仏)、紹興酒(中国)などの輸入を手がけ、人事部から販売企画部門へ転属。さらに、大阪支店へ異動して、自ら輸入したこれらの輸入酒の販売を直接手がけ、実績を上げる。これが認められ、75年から宣伝課長になり、当時、清酒・松竹梅のキャラクターだった石原裕次郎(故人)とCM作りをした。
 「今、考えても惜しかった」というのは先日、亡くなったマイケル・ジャクソンをCMに使う寸前までいったことがある。まだ、焼酎が「労働者の酒」といわれた時代、今の焼酎ブームの先駆けとなった宝焼酎「純」という名のトレンデイなボトルが発売されることになった。電通と組んで水面下でM・ジャクソンをキャラクターで使うことを考え、交渉していた。だが、ツメの段階で「酒のCMはやはり信条に合わない」と断られたそうだ。だが、歌手のデヴィッド・ボウイとの契約にこぎつけ、商品は大ヒットした。
 こうした実績が買われ、82年に海外への事業展開方針が決まると、サンフランシスコ転勤を命じられた。当時、ヌマノサケカンパニーが、カリフォルニア米を使って酒づくりをしていたが、経営に窮していた。共同貿易の金井社長の仲介で買収の打診が宝酒造にあった。「これからは、海外現地生産を」という会社の方針から一気に買収へと話が進み、82年に42歳でアメリカへ赴任した。
 ミッションは「現地生産の松竹梅の販売網の構築」だった。当時、北米での日本酒は圧倒的に他社のブランドが強かった。「3年で松竹梅を全米NO・1にする」との強い意気込みと信念があった。
 わずか2人の部下を引き連れてのアメリカでの挑戦は過酷だったが、ビジネスは確実に前進していることを感じた。
 「入社して、経理、人事、営業、企画、宣伝と経験しましたが、会社経営に全てが役にたちました」という。
 最初に目標としていたサンフランシスコで一番のレストランだった「東京スキヤキ」に日参して、松竹梅を置いてくれるように頼みこんだ。
 「お酒、お客さんの評判いいわよ」といわれた時、苦労が一気に吹き飛び、この自信が全米制覇へと結びつく。
 「基本は、先ず、自分を信じるということ。そうすれば、道は開かれ、結果は必ずついてきます」とビジネス論を語る。
 全米43州を走り回り、紅花を始め、日本食レストランを片っ端から訪問しては、松竹梅の売り込みに努め、州ごとに酒類ディストリビューターとの契約に結びつけた。サンフランシスコから、ロサンゼルス、シカゴ、ニューヨーク、ホノルルと各拠点にセールスオフィスを開き全米への販売網を作り上げ、予想通り3年間で全米一のシェアーを誇るようになった。
 89年に帰国したが「仕事にかける情熱」はひとつも衰えない。常務取締役・海外事業本部長として、英国のスコッチウイスキー会社、アメリカのバーボンウイスキー会社の買収、95年には、中国に北京宝酒造を立ち上げ、中国本土での清酒の啓蒙と市場拡大に努める。
 04年に定年退任したが、ビジネスの師で、人生の師でもある金井社長から請われて共同貿易に入社した。
 小さい時から回りに「英語」があった。親から「英語カルタ」を与えられ遊んだり、教会で英語を習ったり、近くに住む外国人と友達になるなど「英語はいつも意識のうちにありましたね」とアメリカとの縁を説く。
 数年前に腰を手術して、ゴルフはやめたが、今「仕事が趣味」というほど、仕事に青春を感じている。
(吉澤信政記者)