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よみタイムVol.231 2014年6月6日発行号

 [其の41]

かたみの記憶

68年、ワシントンスクエアで。
(左から)九条映子さん、寺山修司さん、私

 寺山映子(九条今日子)さんが亡くなった。あの元気な人が…自宅で一人、ひっそり亡くなったという。
 「告別式には200人以上の人がみえたのよ」と、友人は言った。そうだろう。そばにいると気が晴れてくるような、明るい優しい人だった。
 悔いが残る。寺山さんの生まれ育った青森県の三沢に、今日子さんは寺山修司記念館を創った。寺山さんが遺したさまざまなものがつまっているこのミュージアム。
 「いつでもいっしょに行くから、行けるときに言ってね」と、言われ続けていた。

 寺山さんが劇団天井桟敷を立ち上げ、奥さんの映子さんと初めてニューヨークを訪れたのは60年代の終りだった。ヴィレッジはベトナム反戦運動で沸き返っていた。寺山さんと映子さんは、私を案内人にしてダウンタウンを歩きまわった。ぼろを着て鉢巻きをしたヒッピーたちにまじって反戦デモを見たり、ディスコ「エレクトリックサーカス」でブラックライトに照らされたり、ヴェルベットアンダーグラウンドのニコの歌をきいたり、ワシントンスクエアの芝生で寝そべったり…。サイケデリックジャズ「サンラ」の演奏を、満員のバーの外に立って聴いた後、興奮を鎮めようと真夜中の公園を歩いたこともあった。
 ミュージカル「ヘアー」には、20回以上通っただろう。兵役拒否のヒッピーたちがロングへヤーをなびかせて歌う「アクエリ アス」に、聴き入っていた寺山さんの横顔が忘れられない。
 パリで、ニューヨークで、フランクフルトで、渋谷の街頭で…天井桟敷は、アングラ演劇といわれながら奇想天外な演劇活動を続け、(改名した)今日子さんはプロデューサーとしてそれを支えた。明るくて、聡明で、行動的で、何があってもパニックにならない、怒らない、タフな人だった。彼女の支えがなかったら、身体の弱かった寺山さんは、あれだけ精力的に活動できなかっただろう。
 なぜかこのカップルは、その活動の最中に離婚した。それでも二人は相変わらず一心同体で、精力的に天井桟敷の仕事をこなした。劇団が大きな家族で、二人がカップルでいる必要がなかったのかもしれない。
 寺山さんが亡くなったあと、彼女は寺山さんの母の養子となって寺山修司記念館を創り、寺山さんの全生涯の仕事を保存管理し、寺山さんに関する講演をひきうけたりして、寺山さんのために働いていた。
 1年前最後に会った時、なぜか今日子さんは言った。
 「あなた、寺山と随分話をしたでしょう。あなたと話すの、好きだって言ってたわ」
 「話したわよ。たとえば、寺山さんがこう訊くのーーもしも、ぼくが、松竹の女優さんと結婚すると言ったら、どう思う?」
 瞬間、今日子さんは目を輝かせて硬直し、両手を胸に組んで遠くを見上げ、目をうるませて切なそうな叫び声をあげながら、祈るような姿で、なにか に引き寄せられるように歩き回った。松竹のニューフェイスとして、雑誌のグラビアに愛らしい姿を見せていた頃の寺山さんとの出会いの記憶が、一気に押し寄せてでもきたように。
 ずっと忘れないでいたこの寺山さんの言葉を、聞かせてあげられてよかった。
 これが私からのたった一つの贈り物よ。今日子さん。

 彼女の死を確かめたくて検索したら、こんな句が引用されていた。

 見えぬ海
 かたみの記憶
 浸しゆく
 夜は抱かれていて
 遥かなり

 (寺山修司「映子を見つめる」より)