お特な割り引きクーポン。
プリントアウトして
お店に持って行こう!

イベント情報






 連載コラム
 [医療]
 先生おしえて!

 [スポーツ]
 ゴルフ・レッスン

 NY近郊ゴルフ場ガイド


 [インタビュー]
 人・出会い
 WHO
 ジャポニズム
 有名人@NY

 [過去の特集記事]

 よみタイムについて
 
よみタイムVol.97 9月19日発行号

 [其の23]


日本現代音楽のプロモーター、三浦尚之
「大冒険」してから33年続ける
日本人の恵まれた才能引き出す

 「日本の現代音楽をアメリカに紹介したいので、協力してください」
 スーツに黒いブリーフケースを持った三浦尚之氏は、私のオフィスに寄ってセールスマンのように説明し始めた。「ミュージック・フロム・ジャパン」という組織を作り、海外でまったく知られていない日本の現代音楽を、演奏によって紹介したいという。
 シティ・オペラでコントラバスを弾いている人と思っていた彼の、思いもよらない話。運営資金や適格な協力者が必要なその企画に、無力な私にはどう協力すればいいのか見当もつかなかった。
 だが、やがてそれは実現した。1975年3月11日、三浦尚之音楽監督によるジャパン・ソサエティでの日本の現代音楽演奏会。そのチラシを手にして、三浦さんの日本の現代音楽に対する熱い思いの成果だと、私は感嘆した。
 「どうなるかまったく分からず、大冒険だったなあ」と、今、三浦氏は回想する。
 だが、この企画はその後さらに発展して、年に1度のコンサートが、リンカーンセンターのアリスタリーホール、カーネギーホール、アジアソサエティと規模や質を広げて開催されていった。
 作曲家や演奏家たちのレベルは高く、日本独自の文化に裏打ちされた、斬新で自由な表現が聴衆を魅了し、それにつれてニューヨークで知られる日本の作曲家の数は増えていった。とくにアメリカの現代音楽家や批評家からの高い評価のせいで、ミュージック・フロム・ジャパンが紹介したさまざまな作曲家やその曲の多くは、ラジオ番組でもしばしば紹介され、CDで発売され、委嘱される作曲家もいる。

 66年にフルブライト留学生としてニューヨークへやってきた三浦さんは、シティ・オペラのコントラバス奏者をつとめながら17年ほど、世界中から集まった前衛的アーティストたちがいたるところで自由に活動し、人々がそれを受け入れ、支持していた60年代のニューヨークで、日本の中から出ない日本のアートをなんとかしたいと思うようになっていた。
 「日本の現代音楽のレベルは高いのに、海外では全く知られていませんでした。ぼくの友人に作曲家はたくさんいたので、なんとかして彼等の曲を紹介したかったので
す」。
 「音楽は楽譜だけではだめで、聴衆の前で演奏されなければ完成しません。ぼくを初め、彼らの曲を自分が演奏して紹介したかったのだけれど、自分の楽器のコントラバスがソロには向いていないので、企画とプロデュースに徹することにしました。とにかく演奏して聴かせたい、の一心でした」。
 67年に小沢征爾が指揮してニューヨークフィルが尺八と琵琶との共演で武満徹の『ノベンバー・ステップス』を演奏した。武満は、それがきっかけで現代音楽作曲家として世界的に有名になった。「そういうことは、だれかが何かをしないと起こらないんです」。 
 日本の現代音楽界からはもとより外務大臣からも、三浦氏の文化交流への貢献に対して外務大臣表彰が贈られた。が彼の仕事は終らない。
 才能を認められ、ときめいているアーティストは少なくないが、彼等よりももっと才能に恵まれていながら、なかなか日があたらないでいる人たちも多い。埋もれた才能とよくいわれるが、埋もれる理由はその才能を認め、積極的に育てようとする人と出会わなかったからだともいえる。
 幻の名ダンサー、ニジンスキーを育てたマネジャーのディアギレフやゴッホを支えた弟のテオを挙げるまでもなく、不朽のアートとして残っている名作の陰には必ず、それを認め、支えた人たちがいる。徹底した裏方で、成功し、喝采をうけるのは、才能の持ち主だけだが、それが彼等の無上の喜びなのだ。
 コンサートの準備に丸1年はかかるので、これまで33年間、三浦さんはミュージック・フロム・ジャパンの仕事から解放されることはなかった。 
 最近のテーマは日本の古典音楽。伝統楽器やその演奏家の紹介に情熱を燃やしている。選曲、資金調達、スケジュール、広報、さまざまな交渉に費やすエネルギーは膨大で、夫人の小野真理さんに負う部分が多い。 
 現在、福島学院大学教授をしている三浦さんは、家族に支えられながら、今も09年の、34年目のコンサートの準備に追われている。